ネルケ無方師『禅入門』講義を聞いての雑記
みなさまごきげんよう。 仏教ねえさんだよ。
とても久しぶりに仏教のお勉強をしてきました。たまにお世話になっている朝日カルチャーセンターさんで、ネルケ無方師の『禅入門』を受講してきました。
初回はどうしても起きられなくて、サボってしまいました。今後は続けて受講しよう。ネルケさんとお会いするのもとても久しぶりでした。少しお話ができてうれしかったです。
菩提心とはなにか。をメインに90分間のお勉強。
ネルケさんのお話を聞いて、思ったことを書き綴ります。
すべてのことが移り変わってゆく。
諸行無常。
仏教のお勉強をすると必ず出てくる言葉。
たえず変化し、同じようで同じではない。
これは、今の自分の心情に該当することでもあります。昨日まで人に対して優しくできていたのに、今日はできなかったり。ただ、表面的には同じで、他人にわたしの心情の移り変わりは気づかないものです。その逆も同じ。
2月3日に14年以上一緒に暮らしたうさちゃんがお月さまに還りましたが、それも同じ。
「時」という流れの中でうさちゃんは死に向かって生きています。それは、わたしも同じだけれど、4日の朝にはわたしの目の前から物体としての姿を消しました。
霊魂というものがあるかはわからないし、いつも一緒なんて思えません。見えないし、体温も感じられないのですから。
わたしの死生観は、死後はなにもない。としか思えないのです。ただ、無い。
とはいっても、わたしの息子になってくれたうさちゃんは、わたしが生きている限り、わたしの記憶には留まり続けてくれます。わたしという存在が消えたときに、わたしの息子のうさちゃんは、完全になくなっていくのだろうと思います。
それはそれでよいと思います。人間でも動物でも生きとし生けるものの生死とは、そういうものだろうと感じています。
ものごとに執着したり、迷ったりすると、周りを巻き込んでしまうことがあります。
同僚の女性が、少々常軌を逸している男性とお付き合いをしています。
その男性は、彼女と仲良くしているわたしに嫉妬して、彼女とわたしの勤務先の就業時間中に、わたしを指名し電話をかけてきました。男性は彼女の悪口を30分くらいかけてわたしに話してきたのです。常識はずれも甚だしい行動です。
ただ、わたしは男性の言葉に耳を傾けていました。筋が通らず、よくわからない話を聞きながら、この男性はあきらかに彼女に執着をしている。かわいそうだな、50歳もとうに超した男性なのに。と不憫に思いました。と同時に彼女のことも不憫に思いました。汚い言葉を使いますが、正直「いい年したおじさんとおばさんが、馬鹿じゃないの」と思いました。
聞くところによると10年以上のお付き合いで、男性は彼女に対して優しい言葉と罵詈雑言を繰り返しており、もちろん楽しいこともあったでしょうが、別れる別れないの痴話喧嘩を繰り返してきたそうです。加えて彼女はその男性にお金も貸しています。若い女性との浮気もあったそうです。それでも離れられない、別れられないのです。
わたしにはこの二人の関係性や感情を理解することはできません。わかることといえば、彼女もその男性に男性と同じ力量で執着しているということです。
本人たちはおおいに真剣ですが、第三者から見ると、互いに依存し、執着しているとしか思えません。ただ、それは本人たちが決めることなので、わたしには関係のないことです。
それなのに、このくだらない痴話喧嘩に巻き込まれた、まったく関係のないわたしは、たまったものではありません。
まったく面識のない男性から他人の悪口を聞かされ、その晩には彼女に話をしなければなりませんでした。彼女が男性に社外秘を詳細に話していることが判明したため、彼女に対して、言いたくもない戒めの言葉を言わなければならなかったのです。20代の年端もいかない分別もない娘でしたら、その心中を理解はしようと務めるのですが、齢50の大人の女性です。わたしよりも年上の女性です。あまりに劣悪と感じました。ただ、彼女も別れたいと言っている。苦しんでいるのだ。その時は、そう信じていました。わたしにできることであれば、力になろうと思いました。彼女も大変反省しているように見えました。
ところが、日が経つにつれて、その反省もどこ吹く風になってきました。
これが大人のすることかと驚きましたが、彼女は仕事とプライベートを混在させるタイプであることに気がつき、仕事以外の彼女からは距離を取ったほうがいいのかもしれないと思い始めました。
相談の乗り方を失敗したのだな、とわたし自身、反省しました。彼女は誰に対しても依存するタイプかもしれません。執着心というものは恐ろしいものだと、初めて体感として感じています。彼女にも早く気づいてもらいたいと、かなり言葉を尽くしましたが、うまくいきませんでした。人に説教ができるほどわたしはできた人間ではありませんが、今のわたしにできることはしたと思います。かわいい女性なのに、とてももったいないし、残念でなりません。でもこれは、わたしの価値観を押し付けているだけなので、彼女自身で彼女にとって良い選択をしてもらうことを願ってやみません。
講義中のメモで、
「迷うものは我に執着、悟ったものは手放す」
「実体のないものに執着」
「本来今を生きるということしない」
「今ここをおもしろいと思わない」
「だからいつまでも迷っている」
と連続して書いていました。
今回、少なくとも、手放すということを実践できたのではないか。
いや、こうやってグズグズ考えていることが執着になるのではないか。
そうだ、こうやって、今ここ、で、迷っている。
手放せたかな、執着しているのかな、って迷っていることって一体なに?
という疑問があふれ出してきます。
自分の思う通りになることなんて、ひとつもない
死のうと思って息を止め続けても、通常の状態では死ねません。だから、高所から飛び降りたり、首を吊ったりと、体を差し出すことで死のうとします。とネルケさんはお話になっていました。
呼吸すらも自分の思う通りにいかないのです。それなのに、人を自分の思い通りにできるなんてとんでもありません。
まず、自分についてよく考えることが必要と教えてもらいました。
ここ数年、日々の仕事に忙殺されており、自分のことを顧みる余裕がありません。ここまで会社に尽くしたしたところで、会社はわたしの人生を守ってくれないということはわかっているのにです。責任感、といえば聞こえはいいのかもしれませんが、もう少し、わたしは自分のことを考えてもいいと思います。思う通りにはならないものです。
とはいえ、それは「今」、わたしが選択していることなのです。だから、思う通りになっているとも言えます。嫌なことでもそれを選んでいるのは自分なのですから。
一体、どこを基準に考えたらいいんだろうか。
静かに坐ることで、自分の思い通りになることは何もないということに気づくことが大切と教えてもらいました。
ほのかに気づいているような気もしないでもありませんが、まだまだ道半ばです。日々、迷いながら考えることが、今、わたしにできることなのでしょうか。
生きるって苦行ですね。
最近、心底大変だなぁ。とひとりごちています。