『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』を読んだら、ちょっと心が晴れたよという話。
なかなか読む勇気がでなかった本。昨年の6月に購入したまま、寝かせておいた本。
GWが幸いし、少し心に余裕が出てきた感じがする。気軽に読める文字量で、簡単な日本語でまとめられていることはわかっていた。今なら読めそうだなと手にとった。ここ数ヶ月、なにかと苛立ちが抑えられず、仏教の教えがたまらなく偽善的におもえて仕方なかった。読書といえば、もっぱら歴史本。歴史は自分の考えや思想に影響しないから楽だった。仏教を意識的に避けていた。
この本を読み始めて、途中、胃が痛くなった。まったく自分がマインドフルネスではないからだ。人に参与し、絶えず苛立ち、随時反応しているからだ。胃が痛くなる、というのも生理的反応で、体からマインドフルネスを拒否しているかのよう。「マインドフルネスであり続けることなんてできっこないじゃん」とおもいながら読んでいたのだ。もう読むのをやめよう。そうおもった。まだこんな風に感じるのか……と自分の心がまだ完全復活していないことに気づいた。
それでも、今日、この本を手にとり、カバンに入れ、わざわざ喫茶店へ出向いた。ゆっくりこの本と向かい合おう。そう考え、読み始めた。ここで挫折してしまったら、わたしの心の平静さは戻ってこない。もっと嫌になったらその時にやめればいいと、ページをめくった。
幸い、読み終えるまで、胃が痛くなることはなく、幼少時のころや、疎遠になっている友人だった人のこと、母との関係や現在の職場の人間関係について、嫌な(嫌だった)ことが思い出された。
私は全ての人を、彼らが自分に何をしたのか、そして未来において何をするのかを問わず、解放する(p108)
過去において、わたしは誰かを傷つけているし、誰かに傷つけられている。それは誰もがそうなのだ。そしておそらく未来もそうなのだ。そこを、「解放する」。
「今」のわたしにとって、「ゆるす」ということはなかなかハードルが高い。
「ゆるす」ということは、どうしても上から目線になるように感じてしまっている。それと同時にゆるせるものなのか?という疑問がくっついて離れない。
マインドフルネスであり続けることはよいことだとおもう。それと同時に常にマインドフルネスであり続けることなんてできっこないともおもう。
頭ではそうではないと理解できているような気がするが、心がどうしても納得してくれない。
そこで、「解放する」というキーワードがひょっこり現れた。
少しだけ、ほんの少しだけ、マインドフルネスという状態はどういうことなのかわかりかけたような気がする。ただ、「気がする」だけだけれど。
解放するということは、自分も他者も解き放つことになる。そこで多少の自由が出てきて、身動きができてくるのかもしれない。
そろそろ自分の心と向き合った方が良さそう、仏教の教えを読み直そうとしていた時に、この本を選んでよかった。
本を読んで胃が痛くなるなんて初めてだったし、自分でおもうよりダメージが大きかったんだと気づけたこともよかった。
完全にではないけれど、心が少し晴れたかも。積読しておいてよかった。
読むだけで心が晴れる仏教法話というサブタイトルは、わたしにとって正解。
明日からお仕事。適当にしよっと。
追記
前回のブログで非公開希望でコメントをくださった方へ。
どうやって非公開のコメントに対し連絡取るのかわからなくて、そのままになってしまっていました。とてもありがたく拝読いたしました。お気遣い感謝です。ありがとうございます。