ネルケ無方師による「私の理想の生き方と死に方」講演へいってきた。
昨年の7月だったか、安泰寺の夏合宿以来の無方さん。
朝日カルチャーセンターには年1回は講座をしにいらっしゃるよう。
今回は、「生き方と死に方」についてのご講義でした。
無方さんならではの「キリスト教と仏教の比較」でお話してくださったので、
キリスト教の死生観も知ることができました。
お話を聴いて、思ったことや疑問に思ったことを記録しておきます。
わたしは、「死」についてはほぼ毎日考えます。
「今日死ぬかもしれない」
「明日死ぬかもしれないから今日を一所懸命生きよう」
とかそういう考えではなく、ただ漠然と「死」を思うのです。
一緒に暮らしているうさぎさんが死んじゃったら悲しいよな。
家族が死んじゃったらわたしはどう行動するんだろうか。
もしこのマンションから飛び降りたら、ぐちゃぐちゃになるんだろうな。
とかそんな感じ。
……大丈夫ですか? と思われるかもしれませんが、
わたしにとって通常運転です。特段異常ではないです。
会社では「もしわたしが交通事故で死んだら、君たちはどうするんだい?」
と言って、もっと責任を持てと叱咤激励することはありますが、
これも「死」を思う一環かもしれない。
死後の世界
死後の世界があるのかないのかと問われれば、わたしの答えは「ない」。
死んだあとのことまで心配する必要はない。
今の世界のことで精一杯なのに、死後の世界のことまで心配する暇はないし、
死んだら死んだ時に考えればいいと思っています。
もし、タマシイというものがあり、思考することができる場合ですが。
釈迦は、死んだあとのことについては言及していません。
死んだあとのことは釈迦も知らないので、保留している。
ここで大事なことは、「死後は問題ではない」ということ。
「今、ここ」が問題。
輪廻転生があるとしたら、またこの世に違う姿でやってくることになります。
「来世はめっちゃいい人生が送れるといいなー」と思っていても、
現在をよく人生を送っていない人が、来世もめっちゃいい人生が送れるはずがない。
だから、今を生きろ。
釈迦は涅槃にいる。
死んだら消えて無くなることが涅槃。ろうそくの灯がフッと消えるように。
その時にふと思いついたのが、落語の「死神」というお話。
お気に入りのマンガでも物語の中に組み込まれています。
発売日 : 2013-06-07
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寿命がろうそくの火。火が消えてしまえば寿命は尽きる 。
そんなことを考えていたら、ふと新たな考えが。
輪廻転生を信じることは、「生」に執着していることにならないか?
「また生まれ変わったら」という言葉には、「生」への執着があるような気がしてきたのです。
「生きたい」という願望は当たり前です。
「死にたくない」という願望もおそらく当たり前です。
次があると思いたくなるのも理解できますが、次があるのかは誰もわからない。
だけど、「生まれ変わり」という言葉があるということは、
日本文化において、輪廻転生という現象がある、と
ある程度信じられているということでしょう。
これが執着にあたるのか。
ここではわたしにとっての答えは見つかりませんでしたが、引き続き考えていきたいテーマです。
その他にももちろん、いろいろなお話をしてくださいました。
午後からの坐禅指導にも参加し、経行も久方ぶりに行いました。
少しお話もさせていただいたので、最近の鬱々としていた気持ちが
晴れ晴れとした気持ちになりました。
また安泰寺に行くことにしているので、日々の生活を淡々と
日々修行だと思いながら、なんとか生き抜こうと思います。
なんだかまとまりのない文章になってしまった。
気にしない。
今日入手しました。