【講演】南直哉師の「よく生きる」ことの解答とは。
先週の金曜に、たまにお世話になっている朝日カルチャーセンター中之島で、南直哉師がお話されるということで、出向きました。
お題目は、「よく生きる」とは。
冒頭に、師は、「そんなの僕にわかるわけがないよ。ここ(朝カル)の人はいつも無理なことを言うんだ(笑)」とおっしゃいました。それはなぜか。というお話を丁寧に組み立ててお話してくださいました。
わたしが師のお話から捉えたことは以下のとおり。途中、師がおっしゃっていたことではないことも入ります。
よく言われる「よく」という漢字は、
1.好く
2.良く
3.善く
の3つが代表かと思う。
1.好く
好きなように生きたい。人から肯定され、認められること。
2.良く
他人に良い。自分で決められない。他人の期待に応え続けなければならない。
3.善く
真理や正義。いわゆる自己愛。ナルシシズムの頂点。観念の話になるため一番危険。
個人的には、3.善くはよいことなのでは?と思っていたので、わたしには少々危険思想があるのかもしれない。
南直哉師によると、仏教は「いかに死ぬか」を教えているから、「よく生きる」ことなんて答えられない。というスッキリ明解な解答。
なるほど、そのとおり。お釈迦様は、人生は苦であると定義し、いかに死ぬかを生涯考え続けられた人物です。よく生きるということは、欲望にまみれた俗人しか考えないことかもしれません。しかし、それが人間なのです。
人生はわからないことだらけ。家族でも、別の個体の他人です。真に分かり合えることなんてありえません。
何もわからないけれど、丸呑みすること。
他者は裏切る存在として付き合えるかどうか。これが、自分を開くということにつながる。
加えて、これが、死ぬ練習にもなるかもしれない。
人生の中で苦悶するのは、常に他者との付き合い方なのです。
日々、淡々と丸呑みして生きていけたら、多少ラクになるのかなと思うのですが、なかなかそれも簡単ではありません。
そこで、坐禅の登場です。
坐禅をすることで、自己を手放し、他者も手放す時間を持つことは、かなり有意義です。毎日やれば、悟れるかとしれない。けれど、毎日坐禅をできる人は、現代社会では多くありません。わたしのその中の一人。
坐禅指導を受けましたが、うっかりジーパンで行ってしまい、後悔の嵐。せっかく尊敬する南直哉師の坐禅指導だったのに、もったいなかったです。初心者なわけでもないのに、なぜジーパンをはいてしまったのか。くやしい。
ともあれ、久しぶりに南直哉師のお話を聞けて、大変楽しかったです。ここ最近は、他者の他者に対する不満を一身に引き受けてしまった上に、不満に満ちた他者の感情に影響され続けてしまっていたので、非常につらい日々だったのですが、多少落ち着きを取り戻したように感じます。
ジーパンのおかげで、窮屈で気持ちよくは坐れなかったけれど、それはそれで坐ることができましたし、他者の不満の感情もひと段落したようです。
それもまた、丸呑みした。
ということにしておきましょうか。
【日記】しんどいなー
久しぶりのブログは、グチです。
最近お仕事が異様に忙しく、トラブルも多く、お休みを振り替えることもあり。
正直しんどいなーと思いながら、日々過ごしております。
仕事が忙しいだけならいいのですが、相手方の仕事ぶりに呆れるばかりで、人間関係の悪化にもつながっております。身体的、精神的、双方に悪影響が出ております。
他人に期待する自分がいけないのですが、こんな初歩的なこと、35歳過ぎててもできませんか?社会人何年やってるの?あほなの?と思ってしまい、できるだけ関わらないように気をつけていたのですが、仕事上関わらざるを得ないため、ストレスマックスです……。
坐禅会に行きたいのに、なかなか都合もつかず。
うまくいかないときは、何事もうまくいかないものです。嵐が過ぎ去るのを静かに待つしかないのかもしれません。
とはいえ、そろそろ上向いて来ている雰囲気も見え始めたので、上昇気流にうまく乗って、底辺から浮上できるよう、チャンスを掴み取れるよう、動いていきたいと思います。
【お城めぐり】有岡城跡/播磨灘物語
仏教ねえさん的お城めぐり<1>有岡城跡
伊丹にある、荒木村重ゆかりの荒村寺。
こちらで、坐禅会をしたあとに、立ち寄りました。
有岡城は、荒木村重が黒田官兵衛を幽閉したお城です。大河ドラマ「軍師官兵衛」22話 有岡最後の日は、印象的でした。官兵衛が幽閉された地下牢は跡形もありません。
軍師官兵衛をもう一度観たくなりました。
JR伊丹駅からすぐ。ほんとうにすぐ。めっちゃすぐ。
階段をのぼるとこの風景。
礎石が残ってます。
2箇所残ってました。
この石垣は、どこの部分だったのでしょうか。
仏教関連の転用石のまじる石垣だそうです。気づかなかった。
仏教ねえさん的お城めぐり<本>
読んだことのある有岡城絡みのエピソードがある小説はこれだけ。
これも軍師官兵衛に影響され、原作ではないけれど、司馬遼太郎の小説は読んだことがないから、読んでみよう。ということで数年前に読みました。
読みやすく、テンポもよいため、すいすい読み進められました。
司馬遼太郎が愛されるわけを、ほんの少しわかったような気にさせてくれたきっかけをくれた小説でもあります。
荒木村重は、生き延びた後、堺で茶人となり、過去の過ちを恥じ、荒木道糞と名乗りました。ところが、秀吉の話し相手となり許しを得、道薫とあらためたそうです。茶の道を極めておられます。後世はふんわりと幸せそうな雰囲気です。
主人の謀反のため、処刑された妻子や巻き込まれた家臣たちを思うと、なんだか納得がいきませんが、当時は、当然というか仕方のないことという時代背景があるのかもしれません。もちろん恨み言くらいはあるでしょうけれど。
仏教ねえさん的お城めぐり<感想>
次回から情報を得てから見に行こう。
お城めぐりは町めぐり。
その町全体の歴史を知ろうとしないと、そのお城が築かれた背景が見えてこないことに気づきました。
お寺めぐりとは異なる視点が必要なものなのですねえ。
お寺めぐりでは、そのお寺の歴史にフォーカスすると続々と多方面につながってくるので、自然に町並みを意識できたのですが、今回は特に城跡だったからか、うっかりしていました。
城跡を見に行くときは、要注意。早めに気づけてよかった。
おわり。
【坐禅】新年初めの坐禅/荒村寺
荒村寺さんの坐禅会に参加してきました。
2回目の参加のため、坐禅指導はご遠慮させていただき、長めに坐らせていただきました。
以下、感想。
腰がふらふらする。
坐禅は男性のものかもしれない。とふとおもう。
これまで出会ったご住職の座り姿は、腰が安定しているように見えた気がする。坐禅をしている女性で腰が安定している有名な方いらっしゃるのかしら。
腰がすわるとはどういうことなのか。と疑問がわき出る。下半身が安定していること。という言葉ではなく、体の実感として知りたい。
手足が冷たい。
ところどころ集中できたときがあった。その時は、ふんわりと手足に温もりが復活。集中が途切れると温もりが消えた。
足がしびれる。
足が痛いのは当たり前にあるが、坐禅中にしびれを感じたのは初めてだ。足首を少しずらし、しびれを座ったまま回避できた。
体が硬く感じる。
朝だからなのか、女の子の日だからなのかわからない。背中や腕、腰、脚。時が過ぎていくほど、全身の硬さを感じる。
息が浅い。
体が硬いと感じているせいか、呼吸も浅く、息苦しい。腰を立て、深呼吸を数度。腰を立てることで若干息がしやすくなるが、すぐに息苦しくなる。
という具合で、新年初めの坐禅は、自身の体と向き合うことになりました。前回は、どこにも力が入っておらず、とっても心地よかったので、それを再現したかった。その心持ちがよろしくなかったようです。欲を出してはならぬ。との戒めだったのかもしれません。
なにごともほどほどに。
今日できる最高を全力で頑張ることも、ときには必要かもしれませんが、よほどのことでない限り、最高よりほんの少し下くらいを目指した方が、力が抜けてちょうどいいのかもしれません。
あけましておめでとうございます。
2019年元旦は、昼までゴロゴロ。普段は見ないバラエティ番組を見つつ、大掃除の続きをしました。
年越しは人生で初めて除夜の鐘をつきました。
ちょっと写真変。
たくさん人がいてあたりはざわざわしていますが、鐘の音色の厳かでとても心地よく感じます。なんとかうまく音が出たので、ホッとしました。よい経験をさせていただき、幸先がよい。
初めてうかがったお寺さんでしたので、昼間にも参拝できそうならば、おうかがいしようと思います。
なかなか今年の抱負も思い浮かばず、ちんたらしておりますが、立てた抱負を見直すことをしたりしなかったりなので、のんびり考えます。
とはいえ、やりたいことはたくさんあるし、リストを書き出すのが楽しみ。明日明後日くらいでのんびり考える時間を作ります。
本年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。