仏教ねえさんの灯点し頃の骨休め

仏教について、少しずつお勉強したことを記録していこうと思って始めたブログです。ひよっこコラムニストです。

1月27日は父の命日

36年前の今日。
父が亡くなった。
私は4歳だった。母は31歳だった。
父は何歳だったんだろう。わからない。
36か38だった気がする。
はっきりしていることは、今、間違いなく私は父より長く生きている。


27日

私にとって27の数字は特別。
父が亡くなった日は27日。
私が生まれた日は27日。

不思議と27日に縁がある。
今日は通夜へ向かうために名古屋へ帰郷した。先日事故でなくなったおっちゃんの通夜だ。
27日が通夜との報らせを聞き、不思議な縁を感じた。


遺骨

ついでというのも変だが、通夜の前に父の遺骨を納めている名古屋のとある寺へ出向いた。
父には墓がない。寺の納骨堂に納めている。だから墓参りというより遺骨参りになるのだろうか。
納骨堂に納め続けていいものなのか迷っている。
将来に渡って墓守ができるのかわからないのだ。
母はおそらく私よりも先に逝く。
そして私には子供がいない。
私の人生がどう動くか、どこに住むのか、どこに骨を埋めるのか。まったくわからない。
ひょんなことで結婚するかもしれないし、ひょんなことで死ぬかもしれない。
母は無縁仏にしたくないという思いが強いらしい。納骨堂ならいつも誰かがお参りをしてくれる。かなり前にそんなことを母の口から出たことがある。

だがしかし、あと50年もしたら父や母、私のことを知る人はいなくなり、どこかしらに淘汰され、影も形もなくなる。思い出す人すらいない。

だから納骨堂がいいのか。死んでしまえば自分の骨がどうなっていてもわからないため、どうでもいいような気もしている。だけど自分が生きている間だけは……という気持ちもある。一筋縄ではいかない問題だ。


参列

おっちゃんの通夜には100人を超える人たちが参列していた。知った顔もたくさんいた。それぞれおっちゃんとの別れを悲しむ。

葬列は、残された生きる者の自己満足なのかもしれない。とふと頭によぎる。
きちんと悲しむ。
きちんと泣く。
そこにいる人々と共に故人が生きていたことを確かめるのだ。

事故の跡が残るお顔を確かめる。
あぁ、本当に動かないんだ。と確認する。
未だに信じられないが、事実なのだ。
認めないわけにはいかない。


蛇足

こんなことを考えても、今朝喪服を着ようとしたら着られなかった。
感傷的になったわけではない。
物理的に着られなくなっていた。
信じられない気持ちであふれかえった。
7年前から体重はさほど変わっていないのに、
スタイルが崩れてきているようだ。

なんてこと!!!

ここで諦めたら女が廃る。スタイル調整に精を出そう。
おっちゃんは「痩せなかんなぁ!」とニヤニヤ笑っているに違いない。
はい、ライフハックを取り入れて、精進します。

じゃあね、おっちゃん。また会おう。
じゃあね、お父さん。また来るね。