見ざる言わざる聞かざるとはよく言ったもので。
みなさまごきげんよう。
仏教ねえさんだよ。
向いていないのか
仏教的生活を実践しているが、どうもうまくいかない。
他人と関わることは向いていないのではないかと自身を疑う。
相性の良し悪しはもちろんある。人に対して持つ好感や嫌悪感は誰にでもある。
それが他人の仏教ねえさんへの印象も同じこと。
自分が好感をもっていたら相手もたいていの場合好感を持っているし、自分が嫌悪感を抱いていたら相手もたいてい自分に嫌悪感をもっているものだ。
それはこれまで生きてきて経験としてわかっているし、「人間関係に悩んだらほにゃらほにゃら」などという本にもほぼ例外なく書かれているものだ。
つい先日、どういう人柄かもよく知らないけれど、場を盛り下げるようなことを言う人に対して棘のある物言いをしてしまった。
「ああ、言ってしまった」と後悔先に立たず。
どうも仏教ねえさんは、思ったことを口にしやすい。
それが特段悪いこととも思ってはいないが、良いこととも思えない。
見ざる聞かざる言わざるとはよく言ったもので、それが人間関係を良好に保つのに一番の方法なのかもしれない。
それでも仏教ねえさんはこう思うのだ。
見ないふり聞かなかったふり言わないふりをするよりましだ。と。
見ているのに見てないというのは嘘。聞いているのに聞いていないというのは嘘。言っているのに言ってないと言うのは嘘。
嘘はキライ。
仏教ねえさん、嘘はキライ。ほとんどの人はそうだろう。
ただし、ユーモアを交えた愉快なやさしい嘘なら大歓迎だ。話を面白おかしく盛るのもあり。聞く側がすぐわかる嘘は単純に愉快で笑いを誘う。
場を盛り下げる発言をする人と同じ場に、なぜそんなうそをつくのか?と仏教ねえさんの理解が及ばない人もおり、げんなりした。虚言癖でもあるのだろうか。
会社の問題の彼も仏教ねえさんにたまに嘘をつく。知らないのに知っているかのように振舞ったり、わかっていないのにわかっているかのように振舞う。本当にわかっているのかと問いただすと「すみません。わかりません・・・・・・」という調子だ。
他人に厳しいことが問題か
もしかしたら、他人に対して評価が厳しいのかと振り返る。全員が仏教ねえさんに優しいわけがない。仏教ねえさんは他人を非難できる聖人君子なのかと考える。
絶対に違うと言い切ろう。
そもそも聖人君子は他人を非難しないし、そもそもなにもしない。
ただ、そこにある事実を述べるだけだろう。
知っている人で聖人君子とまでは言わないが、うまくバランスを取っている人がいる。
見ていて、聞いていて、言っている。
そのさじ加減が絶妙に上手い。よくよく聞いてみると、引き際が上手いのかもしれないと気づいた。
一度言ってみて、それでも相手が噛み付く場合は波打ち際の波のようにサーーーっと引く。相手に対して同意もしないし、返事もしない。意見の違う人との対立をサラリフワリとかわしている。するといつの間にか場が違う方向へ進み始めるのだ。
それがいいのか悪いのかはわからない。
ただそれが取りうる限りの行為の中で最適とまでは言わないが、まあまあ適しているのだろう。
許容範囲の広さ加減が原因か
ここまで考えてみると、仏教ねえさんの心の許容範囲の広さがいくばくか。の問題にたどり着いた。
決して広くはないと自負している。
ここで名著である、「君たちはどう生きるか」吉野源三郎著の中の一節を引用する。
僕たちは、自分で自分の決定する力を持っている。だから誤りを犯すこともある。しかし僕たちは、自分で自分を決定する力を持っている。だから誤りから立ち直ることもできる。(p257)