仏教ねえさんの灯点し頃の骨休め

仏教について、少しずつお勉強したことを記録していこうと思って始めたブログです。ひよっこコラムニストです。

今年の抱負とはうらはらな

もうすぐ1月も終わりです。

この1月も、仕事始めから昨年に引き続き猛烈に仕事が忙しく、ついに体が悲鳴を上げ、先週はついに会社行きたくない病にかかり、風邪にもかかってしまい体調がすぐれないことを理由に4日間のんびりしました。

おかげで気持ちは前向きになりましたが、休んでいる間に仕事は溜まる一方なので、結局今週も遅れを取り戻すべく猛烈に働きマンしてます。

 

今年のキャッチフレーズは、

ほどほどに。かつ、上機嫌に。

 

もうすでにキャッチフレーズをガンガン蹴散らしております。

 

ほどほどに。→ ガンガン攻める

上機嫌に。 → ビシバシ怒る

 

いつのまにやら変換されています。

仕事をしている時は、これでいいや。こうしてないと仕事が進まない。仕事を離れた時には、ほどほどに。かつ、上機嫌に。にしようと決めた。

 

オンオフの使い分けがうまくいってないんだなぁ。器用に立ち回ることは仕事の中ではできるけれど、わたしの人生の中ではなかなかうまくいかないものなのかもしれません。

 

少しあきらめて、少し好きなことをして、少しグチって、小さく楽しみたいだけなんだけどなぁ。

多くを望んでいないのだけれど、真の望みがわからないから、ささいなことで考え込んでしまうようです。

 

四十にして惑わず

 

と言いますが、惑わされてばかりです。

 

そんな中、何かおもしろい読み物ないかなと立ち寄った本屋で見つけた文庫本。

男の背中、女のお尻 (中公文庫)

男の背中、女のお尻 (中公文庫)

 

大御所女性作家の対談本です。クスリと笑っちゃうのです。かわいい大人ってこういうことなのかもしれないなぁ。とほっこりします。

 

ほどほどと上機嫌を心に留め、なんとか今年も暮らしていこうと思います。

あけましておめでとうございます

昨年はさほど更新せず。なぜなら、仕事がたんまりありすぎて、人もいないし、助けを乞うても助けは一瞬で消え去り、一人奮闘するしか術はなし。忙殺とはこういうことかというくらいに社畜と化し働いておりましたが、なんの見返りもなく、がっかりの年末を過ごしておりました。

年も改まり、心機一転といきたいところですが、だらだらするクセは一向に抜けないようです。とはいえ、令和2年にやりたいことリストは50を超え、少しずつ気力が戻ってきました。会社員として働く者には一定期間の休みは不可欠。仕事を離れて過ごす年末年始は大変心地よく。よって、会社員としての仕事は、食い扶持以外の何ものでもないのだと実感している次第です。

今年は、社畜にはなるまい。仕事ばかりの人生なんてまっぴらだ!人生は一度きりなのだ。自由にさせてもらうぜ!と、ロック魂を復活させ、ぼちぼち、のんびり暮らしたいと思います。無理したら体壊しちゃう妙齢ですし。

というわけで、本年もよろしくお願いします。

 

 

近所のパン屋さんで、干支のパンという名で売られていました。どう見てもネズミさんには見えないのが愛らしく、購入してきました。

f:id:terasophy:20200103160940j:image

 

 

【お寺めぐり】本能寺

平成最後の日は、名古屋のお友達と会うことになり、京都へ。

京都へ行くのだからと、友達と会う前に、平成最後にどこかのお寺さんへ参拝しようと検索。

 

三条近くの本能寺。

f:id:terasophy:20190501162521j:image

f:id:terasophy:20190501162535j:image

f:id:terasophy:20190501162541j:image

昭和に名古屋で生まれ、平成を生き、縁あって関西圏に住むようになって、はや8年。

令和という新しい時代に出会うことができました。ありがとうございます。

 

一体どんな時代になるのか。

それは国民一人一人の在り方にかかってくるような気がします。

他人に頼らず、個人の力が平成よりさらに必要とされそうですし、個の力で生き抜く術をつけていかねばならないような気がします。

なぜそう思うのはわかりませんが、時代の空気がそう感じさせているのかもしれません。

 

本能寺は、時代が劇的に変化した時代を姿形を変えつつ、時に翻弄されながらも生き抜いてきたお寺さんと言えましょう。まぁ、どこのお寺さんもそうとも言えますが。

わたしがお寺さんに魅了される理由の一つに、時代が変わっても生き抜いてきた実績を保有しているということがあります。

時代に柔軟に対応し、良きこと悪しきこと、清濁をも合わせ込み、飲み込み生き抜くことは、お寺さんに限らず、人間に必要な生きる術なのではないかと思います。

令和の時代は、心に甲冑を着て、少々戦闘モードに入りつつ、自分を大切にかつ鼓舞しながら、他人に優しく、日々心穏やかに過ごして生きたいものです。

f:id:terasophy:20190501163820j:image

 

以下、本能寺に関わるおすすめ本です。

 

本能寺に関わる新説を唱えている本

【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)

【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)

 

 

これを元にした漫画。相当おすすめ。面白いです。太閤ファンは怒ってる気がしますが、どうなんでしょうね。



 

「本来の自分を取り戻す」が始まる日

平成最後の昭和の日に、故郷である名古屋へ。

 

現住まいの近くで私に合う美容院がなかなか見つからない。それならば仕方ないというか、帰る理由にもなると、贅沢だけれど名古屋の美容院へ行っている。

 

美容院で、たわいもない話をしながら、カラーが抜けてしまっていた髪の毛をいつもとは違うカラーにしてみた。普段のわたしは、少しだけブラウンにカラーリングしてもらうのだが、今回は違う。会社でどう思われるかわからない。でも、そんなのはどうでもいい。わたしがしたい色にしよう。前からしてみたいと思っていた抑えめのダークグリーンにした。少しだけアッシュにもした。雰囲気は、ちょっとだけロック。

 

元来ロックな気持ち、いわゆる反抗的というか反骨精神を持っているわたし。心はロックで男前でも、外見はしおらしくおとなしく見えるらしい。そして地味なアジア人特有の顔だ。鼻が低く、凹凸もなくのっぺりとしており、あいにく整った顔とは言い難い。だから、似合っているのかはわからない。いや、似合っていない、と思う。美容院のスタッフの皆さんには「いい感じ」と言われた。心の中で、そりゃそう言わないといけませんよね、とツッコミつつも、いや、見慣れてきたら似合うかも、そうだそうだ。と自ら慰めている。

 

少しだけ名古屋駅をふらつき、味噌カツ定食を食べて、現住まいである大阪へ在来線でのんびり戻ることにした。

 

短い名古屋滞在だったけれど、ヒューマンデザインによると、今日から「本来の自分を取り戻す」ということになっている。それもあって美容院に行ったのだ。

 

「獣になれない私たち」というドラマの中で、主人公である晶ちゃんが、普段はオフィスカジュアルな服装なのに、反抗的な服装をして、社長に業務内容の改善を直談判をしていた。

獣になれない私たち DVD-BOX

獣になれない私たち DVD-BOX

 

もしかしたら、わたしも同じ心持ちなのかもしれない。

まず、格好から。

これって女性にはかなり重要で、格好から気持ちって変わるもの。これまでの自分をくつがえし、本来の自分を取り戻すっていう作業が、わたしにとっては、髪の毛の色を変えることだったのかもしれない。

 

平成から令和に変わる。

日本人であれば大切な節目だ。

天皇が変わるということは、国に変化が訪れるということだとわたしは思っている。

 

どう変化していくか。

どう自分を取り戻すのか。

 

名古屋に戻るか。大阪に留まるか。

ここ数年で自然に決まるのかもしれないし、強引に決まるのかもしれない。

その中でわたしはどんな選択をし、どんな人生を歩むことになるのか。

ちょっとこわいけれど、髪の色を変えたことで少しだけ勇気が出てる気もするんだ。

 

【講演】南直哉師の「よく生きる」ことの解答とは。

先週の金曜に、たまにお世話になっている朝日カルチャーセンター中之島で、南直哉師がお話されるということで、出向きました。

お題目は、「よく生きる」とは。

 

冒頭に、師は、「そんなの僕にわかるわけがないよ。ここ(朝カル)の人はいつも無理なことを言うんだ(笑)」とおっしゃいました。それはなぜか。というお話を丁寧に組み立ててお話してくださいました。

 

わたしが師のお話から捉えたことは以下のとおり。途中、師がおっしゃっていたことではないことも入ります。

 

よく言われる「よく」という漢字は、

1.好く

2.良く

3.善く

の3つが代表かと思う。

 

1.好く

好きなように生きたい。人から肯定され、認められること。

 

2.良く

他人に良い。自分で決められない。他人の期待に応え続けなければならない。

 

3.善く

真理や正義。いわゆる自己愛。ナルシシズムの頂点。観念の話になるため一番危険。

 

個人的には、3.善くはよいことなのでは?と思っていたので、わたしには少々危険思想があるのかもしれない。

 

南直哉師によると、仏教は「いかに死ぬか」を教えているから、「よく生きる」ことなんて答えられない。というスッキリ明解な解答。

なるほど、そのとおり。お釈迦様は、人生は苦であると定義し、いかに死ぬかを生涯考え続けられた人物です。よく生きるということは、欲望にまみれた俗人しか考えないことかもしれません。しかし、それが人間なのです。

 

人生はわからないことだらけ。家族でも、別の個体の他人です。真に分かり合えることなんてありえません。

 

何もわからないけれど、丸呑みすること。

他者は裏切る存在として付き合えるかどうか。これが、自分を開くということにつながる。

加えて、これが、死ぬ練習にもなるかもしれない。

 

人生の中で苦悶するのは、常に他者との付き合い方なのです。

日々、淡々と丸呑みして生きていけたら、多少ラクになるのかなと思うのですが、なかなかそれも簡単ではありません。

 

そこで、坐禅の登場です。

坐禅をすることで、自己を手放し、他者も手放す時間を持つことは、かなり有意義です。毎日やれば、悟れるかとしれない。けれど、毎日坐禅をできる人は、現代社会では多くありません。わたしのその中の一人。

 

坐禅指導を受けましたが、うっかりジーパンで行ってしまい、後悔の嵐。せっかく尊敬する南直哉師の坐禅指導だったのに、もったいなかったです。初心者なわけでもないのに、なぜジーパンをはいてしまったのか。くやしい。

 

ともあれ、久しぶりに南直哉師のお話を聞けて、大変楽しかったです。ここ最近は、他者の他者に対する不満を一身に引き受けてしまった上に、不満に満ちた他者の感情に影響され続けてしまっていたので、非常につらい日々だったのですが、多少落ち着きを取り戻したように感じます。

 

ジーパンのおかげで、窮屈で気持ちよくは坐れなかったけれど、それはそれで坐ることができましたし、他者の不満の感情もひと段落したようです。

それもまた、丸呑みした。

ということにしておきましょうか。