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仏教ねえさんの仏教お勉強ブログ

仏教について、少しずつお勉強したことを記録していこうと思って始めたブログです。ひよっこコラムニストです。

怒らないことって我慢することとは違う。頃合いがわたしにはむずかしい。

しがないOLをしている仏教ねえさん。

雇われる生き方は、安定がある反面、窮屈でもある。

職場は人間関係を構築するのに、人生最難関のステージだと思っている。

 

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自分と価値観の合わない人とうまくやっていくには、

「おかしなこと言ってるな」と思っていても、さらりと受け流す技量がいる。

これを技量と言っていいのかわからないけれど。

「へぇ、そうなんだねー」とふんわり心を持てれば、

自分の中のトゲトゲしいものが、バッと発射されない。

それは心に余裕があるときには、できている。

 

なにを言ってもなかなか響かず、指導に苦労する部下へ毎日

怒ったり、方法をアドバイスしたり、なんやかんやと

自分なりにがんばってきたという自負はある。

 

先週、食事の席で、

「魅力がない職場だと思うねん」と社長に言われた。

 

社長は、わたしのいる会社とは別に会社を持っている。

社長にとって、そちらの会社の方がプライオリティが高いのは知っている。

だが、わたしの会社ではなく、社長の会社である。

 

確かに仕事がどうしようもなくできない人は中にはいるが、

それでもなんとかフォローにフォローを重ね、

日々、みんながんばっているのだ。

少数のため、仕事が当たり前にこなせない人が1人でもいると、

正直業務が進まないことが多いのだ。

だから、普通に働ける人が一人欲しいとお願いしている。

なのになんですか、その言いぐさは。

 

最近、疲れているのか体が重かった。 

自分の中のトゲトゲしい、禍々しいものが、

バババババババーーーーーーーっと連射炸裂。

 

一生懸命やっている自分がバカバカしくなってきてしまいました。

こんな人が社長をやってる会社なんて、辞めてやる!

と、改めて心に誓った先週の金曜日。

 

 

もう、怒るのがしんどい。

部下に怒るのも、上司に怒るのも、社長に怒るのも。

怒らないことなんて、本当にできるのかなと不思議。

怒りは自分から発せられるものだけれど、

それをコントロールするのに瞑想を、と意識はするものの、

流されてしまって、どうしても怒りを隠せない。

人のせいにせず、自分のせいだと思うと、

胃がキリキリしてしまうし、とても悩ましい。

無理をせずに、怒らないことなんてできるのかしら。

とほほ。

 

 

本日から社長がインフルエンザでお休みに入りました。

あんなこと言うから、バチが当たったんだよ。

ひとりほくそ笑んだわたしは、悪い人でしょうか。。。

 

 

修行の道はまだまだ続く。

 

死とは何か。の問いに対し、ある一つの答えがあって驚いたこと。

gacco 衝撃

たまに受講しているgacco。

memento mori〜死を想え〜という講座がある。

第1週を受講し終わり、納得したことがあったため書いておくことにする。

 

 

人は必ず死ぬ。

死ぬことについてよく考える。

死ぬことが楽しみではないけれど、死に対しての恐怖は今のところはない。

ただ、わたしに関わる(関わったことがある)人が死ぬことに対しての恐怖はある。

死とは一体なんなのか。

 

 

死とは文化が作り上げている。

大雑把に言うと、以下のようになる。

 

日本の死の判定は、三徴候(心拍停止・呼吸停止・瞳孔拡大)だった。

しかし近年「脳死」が、死として加えられるようになってきた。

歴史・文化・宗教によって「死」の基準が変わってきているそうだ。

前は「死」でなかったものが 、今は「死」になる。

「死」は絶対的な真理ではなく、人がつくっていると先生は言う。

「死」は、時間軸の中の線で表され、どこに点を置くかは、

文化が決めていることになるそうだ。

 

だから、 今「死」を 考えていくとき、

「文化」として、今の時代、今の地域において置かれている性格のものだと

認識する必要があるとのこと。

 

 

 

医療ドラマの病室での臨終のシーンから考えてみた

ある医師が、必死で心臓マッサージを行なっている。

明らかに亡くなっており、周りの医師は首を振る。

しかしある医師はあきらめられない。心臓マッサージを続ける。

周りの医師がそれをやめさせ、他の医師が死亡時刻を宣告する。

 

こういうシーンはよくあるものだ。

 

だけど、この場合、本当に亡くなっているのは、もっと前であって、

死亡を確認した時間が、死亡時刻となるのだ。

これは、医療の方針か法律かで決められていることだと推察する。

(医療に詳しくないからそのあたりは割愛させていただく)

延命治療を行うことは医師の努力の賜物であり、否定するものではない。

このシーンは、あきらかに「文化」だと思ったのだ。

 

医療が未発達な地域で同じ状況に陥れば、延命治療はなく、

もっと早い段階で死が確定している。蘇生するという奇跡も起きない。

だけれど、医療が発達している地域であれば、

死さえも克服できる瞬間があることは事実だ。

それは「文化」にほかならない。

 

 

宗教社会学的見地から観た「死」

「死」は不変的で絶対的なものだと思っていたのに、そうではなかった。

それに初めて気がついて、なんとわたしは愚かだったのか。

頭をガツン!と殴られたような衝撃だった。

 

宗教社会学的見地から観ると、「死」とは「文化」だ。

という視点が現れる。心底驚いた。

 

「死」は思っていたほど単純ではなかった。

それに気がついただけでも、この講座を受講してよかったと思う。

 

 

 

ご興味のある方はぜひ。

今ならまだ間に合います。

 

lms.gacco.org

 

 

幸せは人それぞれ。

現実逃避を無意識にしているのか、

家に帰る前に、近所でコーヒーを飲みながら、

小一時間ほど本を読み。

帰ってからは、映画を観る。

 

これがいいのか悪いのかわからない。

 

英語のお勉強もしたい。

坐禅もしたい。

でも、ダラダラもしたい。

 

疲れてるんだと自分を慰め、映画を観る。

万年疲れてるので、

どこかで変化を持たせないと。

 

晩ご飯を食べながらみたTVショウ。

「やりたいことを絶対にやる」ということで、

元トップ営業マンがアフリカで中古タイヤ販売をしていると観た。

アフリカ・ベナン共和国で奮闘する30歳の男性のお話だ。

 

アフリカは貧困で喘いでいるのだ。

わたしは日本でぬくぬくとダラダラ。

 

不自由なく生活してて、贅沢な暮らしがある。

お金にも困ってないし、いじめられたこともない。

職もあるし、欲しいものは大抵手に入れられる。

それでも。

やりたいことはつねに後回し。

 

こんな風にダラダラできるのも幸せ。

やりたいことをやらないことも幸せ。

とも思える。

 

幸せなんて、こうやってふと考えたときにやってくるものなのかもなぁ……

 

 

風邪っぴきだったけど、京都行ってきた。

先週から風邪をひいていて、鼻がぐしゅぐしゅしています。

 

それでも昨日は師匠とお出かけの約束。

楽しみにしていたので行かないわけにはいかん!

ということで。

いそいそと京都まで出かけてきました。

マスクを装着して。

 

1つ目のお目当てはここ。

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若冲さんを観に行ってきました。

本邦初公開の鸚鵡牡丹図が展示されています。

東京では若冲ブームで、ものすごい混雑しているとの見聞きしていましたが、

朝一だったこともあり、混雑はなかったですが、

開館時間前に10人くらいは集まっていました。

 

一番衝撃だったのは、にわとりの屏風。

にわとりの躍動感。

観察し続けていないとあんな動きは描けないだろうなぁと驚き。

ひよこが雌鶏の近くにいたり。

にわとりがあんなに可愛いとは思ってもみませんでした。

 

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衝撃を受けたので、つい激しく衝動買い。

 

ランチは、上京区にある和食・京料理の寺町よしくらさんで。f:id:terasophy:20170130225020j:image

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おばんざい、食べ放題。

師匠も美味しいと喜んでくれました。

よかった。

京料理は食べた覚えがなかったので、

こういう機会がないと食べられません。

幸せ。

ごちそうさまでした。

 

 

ランチの後、鴨川を渡り、出町柳駅までてこてこ歩きました。

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ロールシアター京都でイベントに出席させていただいて。

久しぶりの名古屋の友人にも会えて。

師匠とマンツーマン。

楽しい京都を満喫しました。

 

やっぱりお出かけは大事だなぁ。

 

ありがとうございました。

 

 

ただの雑記。

仏教の勉強がとどこおっている件。

ここ数ヶ月、めっきり仏教から遠ざかっている名だけの仏教ねえさん。

たしか昨年の9月くらいから仕事もプライベートもあわただしく、

本もろくに読めないしという、余裕のない生活が続いていた気がする。

 

新しいものをインプットする気力もなく、

アウトプットする気力もなく、

ただただ、目の前のものをこなしていく感じだったかもしれない。

もちろん坐禅もしていない。

 

ふってわいてきた転職話にじっくり腰をすえて考え、

今の仕事のことをじっくり考えて、師匠に相談し、

断腸の思いでお断りさせていただいた。

 

母が倒れて、救急に運んだ。

1年で2回も救急車のお世話になったのは、人生初。

 

昨年の後半3ヶ月は、これまでになく大変だったかもしれない。

そして。

やっと落ち着きを取り戻しつつある、昨今。

 

慌しい中でも坐禅ができていれば、余裕のない生活だったなんて

思わずにいられたのかもしれないなーとか。

同じペースをつかんでいられたのかもしれないなーとか。

あんなにいらいらしなかったかもしれないなーとか。

今となっては後の祭り。

 

すぐにキィィィーーってなるのを、いい加減にやめたい。

日々の中にもっと仏教をしみこませたい。

仏教ねえさんの理想に近い大人になりたい。

 

安泰寺に行きたい。

結局11月に行くって言ってて、行けなかったから。

今頃雪がすごいんだろうなぁ。

 

ただの雑記になってしまった。