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仏教ねえさんの仏教お勉強ブログ

仏教について、少しずつお勉強したことを記録していこうと思って始めたブログです。ひよっこコラムニストです。

父について思うこと。

わたしがまだまだ幼い頃、それこそ物事の判別がつく前に、

父は、仏の世界へ「一足お先に!」と旅立っている。

 

本日、父の弟と妹が大阪へやってきた。

ちなみに父は、5人兄弟の真ん中。

 

叔父と叔母は、父のことを聞かずとも語ってくれるため、

父のことを知る貴重な機会だ。

わたしは父のことをほとんど知らない。

母は父のことをあまり話したがらない。

だから、わたしも聞かないことにしている。

 

叔父曰く、

父は、兄弟の中で一番賢い人だったらしい。

田舎暮らしで当時はまだまだ貧しく、高校へ通うこともできなかったそうで、

当時は泣いて悔しがったそうだ。

気の毒に思った父の母親は、

分厚い物理や科学などの参考書をなんとか手に入れて、

父の向学心を補っていたそうだ。

 

叔母曰く

父は、20歳だった叔母に、

「本物を見て、体験しろ」と言ったらしい。

美術にしろ、写真にしろ、仏像にしろ、本にしろ、

実際に本物を見て、触れてみて、

自分がなにを感じるのかを大切にしなさい、

ということらしい。

 

 

今、父がいたら、

 

歴史の話や宗教の話ができたかもしれない。

わたしの知らないことをたくさん教えてくれたかもしれない。

父の影響を受けていたら、もっとわたしは賢かったかもしれない。

すぐれた指導者として、父がいてくれたら、

わたしの人生は違っていたかもしれない。

 

そして、わたしが30代後半から一家の大黒柱にならなくてもよかった。

 

父の話を聞かないのは、

どうしても歴史に禁物の「IF」を語りたくなるからだ。

母が語りたがらないのではなく、わたしが聞きたがらないのだ。

 

だけど、今までの人生がまったく気に入っていないわけではない。

ただ、別の道があって、そちらのほうが素晴らしかったに違いない、

と想像してしまうのだ。

 

「父がいたら」「父がいたら」「父がいたら……」

 

考えても仕方ないことなのに、父の話を聞くとどうしても思ってしまう。

 

だから、わたしは親戚とは距離を置きたい。

父の面影がちらちらよぎるから。

父によく似た顔の叔父と叔母に会うと、ざわざわする。

わたしによく似た顔の従姉妹に会うと、そわそわする。

 

わたしの中で、父は幻想なのだ。

生物学的に父はいるけれど、父はいない感覚かもしれない。

 

こんなこと書いていて、本当に父のタマシイがあるとして、

そしてわたしがこんなことを思っていると知ったら、

父は悲しむだろうか。

優しい人だったことは知っているから、悲しむだろう。

 

父は、死にたくて死んだわけではないのだ。

それなりに無念だったろうと思う。

わたしをかわいいと思っていたら、我が子の成長を見届けられないことは、

未練として残るだろう。

わたしがもう少し成長してから亡くなっていたら、

わたしがそれなりに会話ができるような大人であれば、

叔母に遺したように、

わたしにも心に残るような言葉を遺していてくれたのかもしれない。 

いや、もしかしたら、何かを言ってくれていたかもしれない。

しかし、残念ながら幼いわたしの記憶にはのこらなかった。

 

こういうことを思ってしまうのだ。

父方の親戚に会うと。

毎回こう思ってしまうのだ。

できれば避けたい感情なのだ。

 

父に対する、こんな感情に正面切って向かい合わなくてはならなくなる時期は、

わたしが死ぬ前に、果たしてくるのだろうか。

たぶん、いずれ、どんな形にしろ、

向かい合う必要はあるとは感じている。

 

早いほうがいいのか。

できるだけ遅いほうがいいのか。

それは、まったくわからない。

 

なにか、きっかけがあるかもしれない。

それを待っていてもいいように思う。

 

ひとりが好き=孤独がすき ということではないのだ。

一ヶ月くらい前に、縁あって、

ほぼお見合いに近い紹介をしていただいた。

 

正直、結婚には興味はないけれど、

一緒に歳を重ねていける異性はいた方がいいような気もする。

 

どうやら、お相手はわたしを気に入っていただいたようで。

先日その男性からお誘いを受け、ランチに行ってきたのだが。

 

おそろしくつまらない……。

びっくりするほどつまらない……。

 

初めてお会いした時も、面白味がかけると思ってはいたけれど、

ここまでとは。

つまらなさすぎて、失礼ながら肘をついてしまった。

予定があることにして早々に切り上げた。

 

男性と二人で(友達でも恋人でも)お茶した時に、

ここまでつまらないと感じたことが生涯になく。

ただただ驚き。

世の中にはいろんな人がいるものである。

まだまだわたしは世の中のことを知らないなぁと実感した。

 

こんなことがあると、

いつご縁があるかはわからないと思いつつ、

やっぱりひとりのほうがいいのかしらとも思える。

一人の人と深くかかわることに意義はあるとは思うけれど、

ひとりが好きなわたしとしては、あまり重要なことでもないような気がする。

 

結局、誰といても、死ぬときはひとり。

ということがどうしても頭から離れない。

 

気の合う友達とでかけたり、お茶したり、ご飯を食べたり、

お酒を飲んだりできれば、それで十分かもしれない。

 

婚活なるものを熱心にしている友人がいる。

彼女はとにかく「結婚して仕事を辞めたい」らしい。

わたしもさほど今の仕事に情熱を持っているわけではないので、

同意する部分はある。

辞めたいなぁと漠然と思ってはいる。

だからといって、仕事をやめて結婚というのはなんだか違う。

心が弱っているときはそれでいっか!と思うときもままあるが。

 

ひとりが好きなわたしにとって、ひとりが好きな人がそばにいたら、

どうなるだろうとも思うのだが、

そもそもお互いひとりが好きなのだから、

わざわざ一緒にいる意味もないような気もする。

 

ちょっと話し相手が欲しいときに、ちょっと機転の聞く話が

できるくらいの茶のみ友達がほしいだけなのになー。

とひとりごち。 

 

 

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http://www.pakutaso.com

 

決して孤独がすきということではないけれど、

ひとりが好きだから、さほど苦にもならない。

 

何事もタイミングでしょうかね。

死について考えたこと。

前、ブログに書いたことの続きを自分なりに考えた。

死とは何か。

 

buddhistwoman.hatenablog.com

 

死とは現代の日本人にとって、忌避される問題だと思っている。

今、生きていて若い人のほとんどは、自分が死ぬことなんてさほど考えてないだろう。

わたしも実際そうだったが、

どちらかといえば、根暗なタイプだからか、

死ぬことについて考えた方ではないかと思う。

 

実際、完全自殺マニュアルという本まで手に入れて、

死ぬなら雪山だな!きれいに死ねそうだし!

と楽観的にではあるが思い描いたこともある。

 

そこで。

わたしが死んだら、このブログやTwitterFaceBook

一体どうなるんだろうとふと考えた。

 

たとえば、わたしが明日事故などで死んだとする。

しばらく経ち、なかなか更新されない仏教ねえさんのブログ。

数少ない読者様は、「あ、やめちゃったのかな」と思うだけで、

死んだとは思わないだろう。

そしてそのまま忘れ去られていく。

TwitterFacebookも同じだろう。

 

実際に交流のある友人たちは、なにかしらの手段で知ることはあっても、

SNS上で知り合って、顔も知らないけれど言葉を交わしたことがある人は、

基本的に知るすべはないのだ。

もしかしたら、今、わたし自身が

すでに亡くなっている方をフォローしていることだってあるのだ。

 

海外では条件が整えばアカウントの削除をしてくれるサービスがあるそうだが、

日本ではまだなさそうだ。

現在、母がいるから頼めるが、順番でいけばわたしが死ぬときに母はいない。

兄弟はいないから友人へ、とも思うが、そんな込み入ったことは頼みづらい・・・・・・。

行政書士などに生前に依頼しておくことが一般的だそうだが、

頼んだ行政書士が閉所したり、わたしより先に死んだら意味がない。

 

みんな、どう考えているんだろう。

そんなこと、考えないのかな・・・・・・。

素朴な疑問である。

 

永遠なんてない。

わたしは永遠はないと思っている。

死んだらおしまい。ただ無になるだけ。

天国とか地獄とかは生きてる人らの妄想であって、なんにもないと思ってる。

臨死体験など、死にかけた時に色々見てるのも事実だろうけど、

死にかけても、生きてる。

きちんと死んでいない。

 

人の想いは永遠だと思いたい。

自分と関わった人が生きている間は、想いは生き続けていると思うし、

生き続けていてほしいと願う。

だけど、わたしを知る人が、この世を去った瞬間に、消えてなくなるものだ。

それが永遠はないと考える理由。

 

いわずもがな。

人の生命は儚い。

ほんの一瞬、ポッと地球にいて、パッと消える。

長くて100年。たったの100年。

地球が誕生して、気が遠くなるような歳月から考えたら、

なんてちっぽけな時間。

そのうち、ネットを使い続けられるのは、何歳くらいまでなんだろう。

 

突然、「はいっ!それまでー!おわりーー!」と

幕が下ろされることだってあるだろう。

 

それでも生きてるから経済活動をするし、

どう生きるかで、もがく。

せっかくだから楽しく生きたいと思うのが、人。

 

だから一日を大切に生きていかないと。

と思うのであります。

 

まだ死について考えが足りていないと思う。

引き続き考えていく。

  

怒らないことって我慢することとは違う。頃合いがわたしにはむずかしい。

しがないOLをしている仏教ねえさん。

雇われる生き方は、安定がある反面、窮屈でもある。

職場は人間関係を構築するのに、人生最難関のステージだと思っている。

 

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自分と価値観の合わない人とうまくやっていくには、

「おかしなこと言ってるな」と思っていても、さらりと受け流す技量がいる。

これを技量と言っていいのかわからないけれど。

「へぇ、そうなんだねー」とふんわり心を持てれば、

自分の中のトゲトゲしいものが、バッと発射されない。

それは心に余裕があるときには、できている。

 

なにを言ってもなかなか響かず、指導に苦労する部下へ毎日

怒ったり、方法をアドバイスしたり、なんやかんやと

自分なりにがんばってきたという自負はある。

 

先週、食事の席で、

「魅力がない職場だと思うねん」と社長に言われた。

 

社長は、わたしのいる会社とは別に会社を持っている。

社長にとって、そちらの会社の方がプライオリティが高いのは知っている。

だが、わたしの会社ではなく、社長の会社である。

 

確かに仕事がどうしようもなくできない人は中にはいるが、

それでもなんとかフォローにフォローを重ね、

日々、みんながんばっているのだ。

少数のため、仕事が当たり前にこなせない人が1人でもいると、

正直業務が進まないことが多いのだ。

だから、普通に働ける人が一人欲しいとお願いしている。

なのになんですか、その言いぐさは。

 

最近、疲れているのか体が重かった。 

自分の中のトゲトゲしい、禍々しいものが、

バババババババーーーーーーーっと連射炸裂。

 

一生懸命やっている自分がバカバカしくなってきてしまいました。

こんな人が社長をやってる会社なんて、辞めてやる!

と、改めて心に誓った先週の金曜日。

 

 

もう、怒るのがしんどい。

部下に怒るのも、上司に怒るのも、社長に怒るのも。

怒らないことなんて、本当にできるのかなと不思議。

怒りは自分から発せられるものだけれど、

それをコントロールするのに瞑想を、と意識はするものの、

流されてしまって、どうしても怒りを隠せない。

人のせいにせず、自分のせいだと思うと、

胃がキリキリしてしまうし、とても悩ましい。

無理をせずに、怒らないことなんてできるのかしら。

とほほ。

 

 

本日から社長がインフルエンザでお休みに入りました。

あんなこと言うから、バチが当たったんだよ。

ひとりほくそ笑んだわたしは、悪い人でしょうか。。。

 

 

修行の道はまだまだ続く。

 

死とは何か。の問いに対し、ある一つの答えがあって驚いたこと。

gacco 衝撃

たまに受講しているgacco。

memento mori〜死を想え〜という講座がある。

第1週を受講し終わり、納得したことがあったため書いておくことにする。

 

 

人は必ず死ぬ。

死ぬことについてよく考える。

死ぬことが楽しみではないけれど、死に対しての恐怖は今のところはない。

ただ、わたしに関わる(関わったことがある)人が死ぬことに対しての恐怖はある。

死とは一体なんなのか。

 

 

死とは文化が作り上げている。

大雑把に言うと、以下のようになる。

 

日本の死の判定は、三徴候(心拍停止・呼吸停止・瞳孔拡大)だった。

しかし近年「脳死」が、死として加えられるようになってきた。

歴史・文化・宗教によって「死」の基準が変わってきているそうだ。

前は「死」でなかったものが 、今は「死」になる。

「死」は絶対的な真理ではなく、人がつくっていると先生は言う。

「死」は、時間軸の中の線で表され、どこに点を置くかは、

文化が決めていることになるそうだ。

 

だから、 今「死」を 考えていくとき、

「文化」として、今の時代、今の地域において置かれている性格のものだと

認識する必要があるとのこと。

 

 

 

医療ドラマの病室での臨終のシーンから考えてみた

ある医師が、必死で心臓マッサージを行なっている。

明らかに亡くなっており、周りの医師は首を振る。

しかしある医師はあきらめられない。心臓マッサージを続ける。

周りの医師がそれをやめさせ、他の医師が死亡時刻を宣告する。

 

こういうシーンはよくあるものだ。

 

だけど、この場合、本当に亡くなっているのは、もっと前であって、

死亡を確認した時間が、死亡時刻となるのだ。

これは、医療の方針か法律かで決められていることだと推察する。

(医療に詳しくないからそのあたりは割愛させていただく)

延命治療を行うことは医師の努力の賜物であり、否定するものではない。

このシーンは、あきらかに「文化」だと思ったのだ。

 

医療が未発達な地域で同じ状況に陥れば、延命治療はなく、

もっと早い段階で死が確定している。蘇生するという奇跡も起きない。

だけれど、医療が発達している地域であれば、

死さえも克服できる瞬間があることは事実だ。

それは「文化」にほかならない。

 

 

宗教社会学的見地から観た「死」

「死」は不変的で絶対的なものだと思っていたのに、そうではなかった。

それに初めて気がついて、なんとわたしは愚かだったのか。

頭をガツン!と殴られたような衝撃だった。

 

宗教社会学的見地から観ると、「死」とは「文化」だ。

という視点が現れる。心底驚いた。

 

「死」は思っていたほど単純ではなかった。

それに気がついただけでも、この講座を受講してよかったと思う。

 

 

 

ご興味のある方はぜひ。

今ならまだ間に合います。

 

lms.gacco.org