仏教ねえさんの灯点し頃の骨休め

仏教について、少しずつお勉強したことを記録していこうと思って始めたブログです。ひよっこコラムニストです。

目標には言葉遊びを。

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みなさまごきげんよう。 仏教ねえさんだよ。

 

一年のはじまりに、目標を立てる人は多い。

だが、一年のおわりに、目標を振り返る人は多くはないはずだ。

 

1月に目標を立て、3月くらいに少しできなくなっており、「まあいっか」と目標自体から目をそらつつし、いつしか目標を立てていたことすら忘れていく。

6月くらいに「あ、目標を立てていたかしらね」とほんの少し思い出しはしても特になにもせず、「暑いから何もする気がおきない」と8月をやり過ごす。

12月のはじめに「今年一年もあっという間だったなあ」と思いを馳せるのと同時に、来年のことをふと考えたときに、年始に立てた目標をあらためて思い出す。

そして、目標に対して、「今年もできなかったなー」と清々しいくらいのあきらめとちょっとした後悔がよぎる。

 

いつもこのくりかえしで、まったく情けない限りだ。

目標に向かって何かをすることが大の苦手だと公言しているのと変わらない。目標という言葉を前向きな言葉に感じているため、好みでないと思うことすらある。根本的に、前向きな言葉を嘘くさく感じてしまうのも影響しているのかもしれない。

そのためなのか、「なぜ目標の達成ができないのか」を考えることが多い。目標にまつわる、わたしの考えはこうだ。

 

ひとつめは、

「時間術や自己啓発の本を読んでも無駄」

わたしには、目標を達成するために、時間術や自己啓発の書籍を何十冊と読みまくった時期があった。ところが、本を読んで、これからできるようになるのだ、と心が満足してしまい、実行するという行動に落とし込むことが、なぜかめんどうになってしまっていた。

こんなにだらしない著者でもできるようになった! と著者自身を下げる文章が書いてあることがたまにある。ところが、落とし穴があるのだ。本の著者紹介を読んでみてほしい。たいていが誰もが知っている一流大学出身者が著者なのだ。賢さレベルが3段階あるとすると、1番上の人が書いている。

平凡な中流大学出身者で、賢さレベルはおそらく中程度のわたしよりも、著者のほうがそもそもの行動基準がはるかに高い、という現実を突きつけられたのを思い知らされる。

 

ふたつめは、

「がんばろうと思ったところで無駄」

気持ちだけで乗り切ろうと思った時点で、詰みだ。

はじめの数か月は気持ちだけで、がんばることは可能だ。ただ、人生にはハプニングが大なり小なり存在するものだ。うっかり目標を忘れてしまう日がたびたび訪れてしまう。

2回くらいは、なんとか失念状態から脱出はできるだろう。

ところが、3回目、4回目となってくると、「まあいっか」と少しずつがんばる気持ちは薄れていく。5回目となってくると、失念状態を継続する力が発動する。

忘れるという努力だけは、確実に、あまりに自然にできてしまうものらしい。

人の心は諸行無常が世の常だ。失念状態から毎回はい上がれる人は、そもそも「がんばろう」と思わないものなのだ。わたしは、そこを勘違いしてはならない。

 

みっつめは、

「こつこつ小さな成功体験を積み重ねれば、目標を達成できるなんて嘘」

大きな目標を小さな目標に分割して、ひとつずつ目標を達成していく方法である。この方法自体は素晴らしいと思っている。成功体験を積み上げることで、自分に自信をつけていく。「これができたから、次もできる」という、あまりに前向きな行動指針である。

わたしは何度も挑戦した。

そこをあえて言う。こんな方法は、くそくらえだ。

すみません、汚い言葉ですみません。暴言を吐いてしまった。

小さな目標を達成できるのであれば、とっくに大きな目標を達成できている。積み重ねが大切なのはわかっている。それができないから困っているのだ。所詮、わたしのように小さなことからこつこつとできないタイプには、無理のある話だったのだ。

 

やっと気づいたことは、たったのひとつ。

わたしにとって、どんなに小さくても、目標があること自体がストレスになっていたのだ。

 

ところが、ストレスになろうがなんだろうが、やりたいことをやろうと思ったら、どのように考え行動するかが重要である。

目標がなければ、目指す場所がわからない。

目標という字面や言葉のもつニュアンスがわたしに合わないのではないか。だから、わたしは、目標をこう変換するようにした。

 

「戦略を設定する」

 

人生を自分の納得するものにするため、総合的に準備し、計画し、運用していくために必要なミッションをするのだ。戦略を設定しようと考え始めると、ゲームやパズルのように思えてきて、考えることが楽しくなり、ミッションを完了したくなる。

 

目標という言葉は、とても使いやすい反面、根本的に前向きな言葉に違和感をもっているわたしのような人間には荷が重い言葉だったようだ。

言葉遊びにしか思えなくもないが、人生に遊びは必要だ。

人生をゲームのように考えながら、戦略を設定し、ミッションを完了しようとすると案外、気持ちがラクになる。

 

なんでこんなに目標という言葉に違和感があるのだろうか。不思議である。