仏教ねえさんの灯点し頃の骨休め

仏教について、少しずつお勉強したことを記録していこうと思って始めたブログです。ひよっこコラムニストです。

死とは何か。の問いに対し、ある一つの答えがあって驚いたこと。

たまに受講しているgacco。

memento mori〜死を想え〜という講座がある。

第1週を受講し終わり、納得したことがあったため書いておくことにする。

 

 

人は必ず死ぬ。

死ぬことについてよく考える。

死ぬことが楽しみではないけれど、死に対しての恐怖は今のところはない。

ただ、わたしに関わる(関わったことがある)人が死ぬことに対しての恐怖はある。

死とは一体なんなのか。

 

 

死とは文化が作り上げている。

大雑把に言うと、以下のようになる。

 

日本の死の判定は、三徴候(心拍停止・呼吸停止・瞳孔拡大)だった。

しかし近年「脳死」が、死として加えられるようになってきた。

歴史・文化・宗教によって「死」の基準が変わってきているそうだ。

前は「死」でなかったものが 、今は「死」になる。

「死」は絶対的な真理ではなく、人がつくっていると先生は言う。

「死」は、時間軸の中の線で表され、どこに点を置くかは、

文化が決めていることになるそうだ。

 

だから、 今「死」を 考えていくとき、

「文化」として、今の時代、今の地域において置かれている性格のものだと

認識する必要があるとのこと。

 

 

 

医療ドラマの病室での臨終のシーンから考えてみた

ある医師が、必死で心臓マッサージを行なっている。

明らかに亡くなっており、周りの医師は首を振る。

しかしある医師はあきらめられない。心臓マッサージを続ける。

周りの医師がそれをやめさせ、他の医師が死亡時刻を宣告する。

 

こういうシーンはよくあるものだ。

 

だけど、この場合、本当に亡くなっているのは、もっと前であって、

死亡を確認した時間が、死亡時刻となるのだ。

これは、医療の方針か法律かで決められていることだと推察する。

(医療に詳しくないからそのあたりは割愛させていただく)

延命治療を行うことは医師の努力の賜物であり、否定するものではない。

このシーンは、あきらかに「文化」だと思ったのだ。

 

医療が未発達な地域で同じ状況に陥れば、延命治療はなく、

もっと早い段階で死が確定している。蘇生するという奇跡も起きない。

だけれど、医療が発達している地域であれば、

死さえも克服できる瞬間があることは事実だ。

それは「文化」にほかならない。

 

 

宗教社会学的見地から観た「死」

「死」は不変的で絶対的なものだと思っていたのに、そうではなかった。

それに初めて気がついて、なんとわたしは愚かだったのか。

頭をガツン!と殴られたような衝撃だった。

 

宗教社会学的見地から観ると、「死」とは「文化」だ。

という視点が現れる。心底驚いた。

 

「死」は思っていたほど単純ではなかった。

それに気がついただけでも、この講座を受講してよかったと思う。

 

 

 

ご興味のある方はぜひ。

今ならまだ間に合います。

 

lms.gacco.org