悟るっていったいどういうことなんだろうと考えてみた。
みなさまごきげんよう。
仏教ねえさんだよ。
人はよく、「○○って悟ったんだよ」「さとり世代」などと、「悟る」という言葉を気軽に使っている。
そもそも「悟る」という言葉は、はっきりとわかった、会得した。という意味だ。
物事がはっきりすっぱりわかっている人なんているのだろうか。
仏教ねえさん、この世の中に悟っている人は一人もいないと思っている。
もちろん、その道のエキスパートであったり、専門家はいる。
それでも、その道の真髄に悟る領域まで近づけたとしても、
きっちりど真ん中、まったく正しいとだれもが思える事柄はないのではないだろうか。
そうでなければ、議論など必要ないはずだ。
世の中には必ず、相反するものが存在する。
「これが正解」と思っていても、思いもよらぬ方向から「ちがう」という人は少なからず存在するものだ。
ゆえに「わたしは悟ったんだ」と発することは、はなはだ茶番に過ぎない。
悟りは、自分で「悟った」と報告するのではなく、他者が「あの人、悟ってる」と認知することではないか。
本来なら自己の中で完結できればいいのだが、それはただの自己満足にすぎない。
人は社会的動物である。
他者とかかわっているからこそ、自分とは何かと考える。
他者がいなければ、自分を考える必要もないし、認識する必要もない。
だからこそ他者へ、悟った!といいたくなるのだろう。
そこが、間違い。
いつもお世話になっている天正寺のご住職も、毎回のように坐禅会でためになるお話してくれる。
そして最後に必ず、
「一緒に勉強していきましょう」
という。
この姿勢が、正しくて、悟りに近いということなのではなかろうか。
仏教ねえさんより。
ご住職のご本です。