感想文:『考えるヒント』(小林秀雄著)を読んで
みなさまごきげんよう。
仏教ねえさんだよ。
そもそも考えるヒントってなんだろうか。
そんなことを考えながら読み進めてみた過程を書いてみることにする。
読み方ってなんだろう
小林先生の文章は仏教ねえさんには少々難しいと感じるものがある。
そんな文章に出会った時にどうするか。
むん。と踏ん張って一字一句丁寧に理解しようと何度も何度も同じ文章を繰りかえして読むことがある。下手したらなかなか頁をめくれない状態に。それでも気にせず納得がいくまで繰り返し読む。
一方、すーっと頁を眺めて、なんとなしに飛び込んできた単語だけ見て、先に進む。頁を進め、気になった文章からまた読み始めることもある。
それでも読書になるから不思議なものだ。
「今」自分に必要な情報を得ようと、無意識に思考錯誤している感覚。
読みたい願望が切実か切実でないかの違いかもしれない。
読むってなんだろう
仏教ねえさんにとって「読む」とは、他人の思考や妄想を知ること。
自分には思考・妄想できない世界に入り込むこと。ビジネス書でも小説でも同じこと。
こんな風に考えるのか。そんな世界があるのか。
他人の書いた良質な文章を読むと、自分の狭小さがわかり、知りたい欲がこんこんとどこからか出てくる。
この人がこういう文章を書くにあたって、何に(もしくは誰に)影響されたんだろう、何を見てこの言葉を選んだのだろう、何を感じ文章にしたいと筆を取ったのだろう。
そのままの文章をそのまま読む時のほうがもちろん多いが、その人がその文章を書いている姿格好が見えてくる文章に極稀に遭遇する。
それがこれだった
前置きがかなり長くなったが、そんな文章に出会ったのだ。とても久しぶりに。
「樅の木」(p171)これである。とても短いエッセイ。たったの3頁。
昭和37年に書かれたものだ。仏教ねえさんが生まれる気配すらない。
昭和の香りがした。木材の湿った香りに近い。
仏教ねえさんにとって、昭和はこの香りが必然。昭和生まれで多少感傷的な心持ちがある人なら理解できると思う。人それぞれ人生の香りがあるように。平成の世には香らない、昭和の香り。
風を感じ、色を感じ、気温を感じ、香りを感じる。
そっと枯れた樅の木を眺める人。新しく庭に植えたモチの木を微笑ましく眺める人。それに以前慣れ親しんだ樅の木を重ねて少しさみしげに見る人。
そんな風景がふんわりと浮かぶ。
ああ、本って素晴らしい。ほぅと溜息が出た。
結局のところ。
ヒントはどこだと必死に探さなくても、自分の力量に見合ったヒントは手が届く範囲にすでにころんと落ちているものなのだ。それを見つけて拾うか拾わないかは自分次第。
人の考えることなんてたかが知れている。
自分なりにもがき考え、生きていく。
そのもがき考える中で、本というツールがひょっこりタイミングよく現れる。
本の中で、ほんの一寸、心に響く文章に出会う。
その体験こそが、考えるヒントになるのだ。
仏教ねえさんより。
※仏教とは関係のない投稿。