まるっと4日間の接心
毎日3時45分起床。21時すぎ就寝。
宵っ張りの朝寝坊のわたしは、どう坐禅をしたのか。
果たして坐禅はできたのか。
うつらうつら問題、勃発
案の定、眠い。うつらうつらして、坐禅どころではない。隣に坐っていた新人雲水さんも、もぞもぞ。もちろんわたしよりもうつらうつら、もぞもぞしていませんが、おかげで少し安心していられる。
プリズンブレイク似の青年とお手洗いが同じだった時に、小声で、「寝ちゃうんだけど、みんなどうしてるの?」と訊ねる。
「わからないねぇ〜。ふん!ってがんばるか、すぅはぁすぅはぁの深呼吸ねぇ〜。みんな寝ちゃうことあるよ〜。気にしないね〜」と笑顔で返される。
具体的にコツがあるものでもないようなので、その答えに従い、ふん!を採用してみる。
ふん!!!!!
心で叫ぶ。
……効果なし。そりゃそうか
どうしたら寝ないのか、検証に検証を重ねてみて、ある程度効果があったことは以下の3点。
1.法界定印を相当意識して組む
印が崩れないように意識を手に持ち続けることで、眠りへの誘いを回避できた。ほっかいじょーーいん!!!ふん!!の呪文だけでは効果はない。同時使用がよい。今後使っていくことにする。
2.無心になろうとせず頭の中で音楽を鳴らす
メガデスを流したり。
ベビーメタルを流したり。
プリティ・メイズを流したり。
このような選曲もどうかと思うが、自分のレパートリーはメタル中心だから仕方ない。
3.一柱捨てて、潔く次に備える
自然に瞼が閉まってしまうので、あきらめる。ああ、眠たいんだな。寝たいんだな。一層の事うつらうつらしましょうぞ。
そうあきらめると、次の坐禅からは眠気に勝てた。あきらめも肝心みたい。
ブレイクタイムにコーヒーを飲んでもいいよとのこと。試してみるも普段コーヒーを寝る前に飲んでも普通に寝られるわたし。特に効き目はなし。
脚と背中の痛さ問題、勃発
45分間坐禅、15分間経行を5回のワンセット。5時間ぶっ通し。その後薬石。45分くらいブレイクタイム。これを3回繰り返す。薬石は2回。
堂長さんの「接心は覚悟がいりますよ」という言葉がジワジワ染みる。
坐禅の45分間があまりに長い。とにかく長い。普段、坐禅をする時は気が向いたときに約25分程度。そして股関節の硬さも災いし、とにかく脚が痛い。
早く鐘が鳴らないかしらと待ち遠しい。
脚の痛さもおそらく20分くらいしたら、我慢の限界に達し、結局足の組み方をちまちま変えてしまう。しかし、堂長さん曰く、「それは坐禅ではない」。
そんなぁ……と思いながらも仕方がない。痛いものは痛い。
痛いなぁと手放そうとしても、「ああ痛い。だめだ、我慢するのもよくないらしいし。ああ痛い。という思いをそのまま受け入れて、そのままにするんだよ」
なんてこと、できないぃぃぃ!!とほほ
ということで、脚を組み替えてしまう。
マイお座布、持ってこれば良かったのかなぁ。と後悔先に立たず。
他の雲水さんはまったく微動だにせず。
どうやって坐る位置を決めてるんだろうかと不思議に思う。ビターーと、静止するのは、思った以上にものすごく大変。腹筋と背筋を鍛えるとできるようになるのだろうか。
腰を入れればいいと、以前堂長さんの坐禅講座に参加したときに聞いたことを思い出す。腰を入れようと、骨盤を縦にする。しばらくすると自然に骨盤が後ろに動いてしまう。これを繰り返すうち、背中がバキっと音を立てる。なかなか体験できない背中の痛みでありました。
坐禅中に頭に浮かんでいたこと
終始、「足がイタイ」「背中がイタイ」「ネムイ」という思いが渦巻いていました。
一泊坐禅会の時に感じた、不思議な感覚は皆無。あれはなかなか体験できるものではなさそう。一泊坐禅会のときは、精神的にイライラしていたこともあったような気がするし、何かに怒っていたような気もする。頭から離れてくれない怒りを考え続けて考え続けて、ある瞬間に、フッとどうでも良くなり、なにも考えなくなった。
今回は何かに怒っていたわけではないし、気持ちの整理をしに行くような気分だったし、さらに言えば、新しい自分に出会えたりするのかもしれないという淡い期待があった。そもそも、坐禅に対する姿勢が違っていたのでしょう。
一方。
3日目の最終の坐禅時に、堂内が停電に。ろうそくを灯しての坐禅。
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ろうそくの灯。わたしはとてもろうそくの灯が好き。だからちょっと嬉しかった。自分の影が真っ白な壁に写って、 それをなんとなしにぼうと眺める。
そんなとき、ふと、あるビジネスモデルが浮かんできた。これはなかなかいいんじゃないかと一人ほくそ笑む。考えていることを事業として形にできたら面白そうだな。大阪に戻ったら早速方法を模索しよう。こんな感じにできたらいいな、あんな感じだったら可能なんじゃないかとか、ワクワクしていた。
4日目の夜、和歌山に台風が来ていたようで、その影響で強い雨が降っていた。
雨が降る前は、遠くで風が木々を揺らしている音が聞こえた。
さわあああ……ざざざざざざ……ざあああああ……さささささ
「そろそろ風がこっちにくる」と感じると、ふわあと堂内にひんやりとした風が吹き抜け、わたしの頬をなでていく。しばらくこれを繰り返すと、風とともに雨雲がやってきて、堂外の木々の姿を雨雲自身と雨粒の大きさで覆い隠してしまう。
ババババババという雨音が鳴り響き、そして続く。同時に、遠くの風が木々を強く揺らしている音が聞こえ、しばらくすると風と一緒に違う雨がやってくる。
いつも聞こえたカエルの歌も聞こえない。静かにささやく虫の音も聞こえない。ただ、雨と風の音だけが聞こえるのみ。
録音したいくらい、美しい音。気持ちがよかった。できるならもう一度聞きたいくらい、魅了されてしまった。
最終日には、なんとなく身心ともに慣れてきていたから、これで終わってしまうのはとても残念な気持ちでいっぱい。
これを定期的にできればどれだけ幸せだろうかと思う一方、出家をするほどの根性はないと自覚した。
修行は甘くないと、心にも身にも染みた。
そんな人生初の接心。
接心前夜
路線バスを降りて、山道をいざ。
歩き始めて3分。
け、結構しんどいな!とすでに心細い。
と言いながらも、農家の方に出会ったら「こんにちはー!暑いですねー!」なんてご挨拶しながら歩きます。
ここからだんだん坂道が険しくなる。
もう心折れる。
相当登ったよ!やっほー!
この道、登ったんだよ。すごいね!
もうヘトヘトだから、写真がうまく撮れない。
しばらく行くと、ぱあっと鮮やかな青が目に飛び込んできました。
紫陽花で、やっとお寺さんの敷地内に入ったことがわかります。
汗をかきかき、山道をふぇぇと心折れながらも登ってきたかいがありました。
真っ青でキレイ。咲き乱れるとはまさにこのこと。
イノシシとの格闘もなく、途中休憩しつつなんとか1時間かけて、無事に上山できました。
と思ったら、犬がいる!!まさかの野犬??
正体は、
飼い犬のまやちゃんでした。
久しぶりにお犬さまとたわむれる。癒される。
着いたらすぐにお風呂に入らせていただき、
山道1時間歩いた汗を流しました。
汗でびっしょりのTシャツも洗うことができました。あー、よかった。
そして、薬石。
冷やし中華。そして、今回はそんなに急がなくてもよかった。単純に嬉しかった。
ただ、食べ方を忘れていて、????。見よう見まね。
わからないのが当たり前だから、誰も気にしてないし、わたしも気にしない。
薬石が終わったら、後片付けをして、お勉強会。
堂長さんの接心前のお話です。
自力本願と他力本願についてでした。いただいたテキストを改めて読み込んで、よくよく考えることにする。
普段、俗世間にまみれているわたしは、お金を払わないと聴けない堂長さんのお話は貴重なもの。
ふと不思議に思ったことがひとつ。
全編日本語でのお話。日本語がわからない雲水さんもいる。その方達は、理解したのかしらん。
そこで。話す言葉って重要だなと感じ入る。英会話教室に2年通っていても普通に話せないわたし。雲水さんに英語で話しかけても通じないから、英会話教室の先生の日本人が話す英語の理解力が凄まじいんだろうと、仏教とはまったく関係のない感想をもつ。かなしい
そのあと、顔がちっちゃくて、プリズンブレイク主演のウェントワース・ミラーさんを細く柔らかくした雰囲気の日本語が達者な方に、接心のご指導をいただく。
ここに集う人たちは、生きることの意味や意義を探してるんだなぁとしみじみした初日。
きっとわたしもそうなんだろう。そして、いつまで生きることについて考えていくんだろう。そして、答えはあるのか。
たぶん。おそらく。ない。だろう。
それでも坐禅を通して、心の底から腑に落ちたり、なにかわかったりするのかな。不安もよぎる。
21時に寝床に入りましたが、案の定眠くない……。明日から坐禅三昧。果たしてできるのか。
つづく。
いつになく緊張
長距離バスから降車。外は雨。
路線バスに乗るまでの空き時間に、常連さんたちの楽しげな会話で賑やかな喫茶店で一服しながらしたためておきたいことを。
平成29年の前半があと10時間くらいで終わりを迎え、いよいよ後半が始まります。特に意図していたわけではないけれど、今年後半の始まりにふさわしく、坐ることからスタートすることになります。
普段何があってもさほど緊張しないわたしですが、いつになくソワソワして緊張しています。
何に緊張しているかというと、山道をひとりで50分くらい歩くこと。
両親の実家が愛知県の山深いところにあるのためか、海よりも山が好きなわたし。幼い頃から山道のクネクネした坂道が大好きで、川を渡す寂れた橋に遭遇するとウキウキします。
それでも、やっぱり、知らない山道をひとりで歩くのは心細い……。イノシシやクマに出会ったら、どうやって戦えばいいのか。死んだふり?笑 と半ば冗談半ば真剣に考えています。
一番怖いのは人間。人間が襲ってきて、戦うとなると非力なわたしには武器が必要。今日は雨。傘がある!ツイてる! こんな妄想まで繰り広げられております。とほほ
これも修行の一貫。頑張ります。
一方
長距離バスに揺られながら、Twitterを眺めていたら、やんわりチェックしている石井ゆかりさんの星占いが流れてきました。
Twitterから
わたしは蠍座。
蠍座は特に用事のない待ち合わせに、ぎゅっと「真の用事」が詰まっているかも。
用事のない待ち合わせが一体何を指すのかわからない。けれども、真の用事が詰まっているらしいので、これから向かう場所に何かしらあるのかしらん。
占いって今の自分の状況と照らし合わせてみて、何か引っかかりがある時だけなんとなしに意識してみると、「ああ、こういうことでしたか」と思うことがあるから不思議なものです。
果たして、どのような真の用事を見つけるのでしょうか。イノシシとの用事のない待ち合わせで、真の用事が命がけの格闘でないことを祈るばかりです。笑
ちょっとドキドキします。
おしまい。
今週末からお山にこもります。
人生で初めて、接心をすることに
某お寺さんのご住職のご厚意で、7月1日から5日まで接心してきます。
本来なら修行者のみ。
なんちゃって仏教徒であるわたしなんかが行ってもいいのかしらんと思いながらも思い切って飛び込むことにしました。
他の修行者さんに迷惑をかけないようにしなくちゃ、
本当にずっと坐っていられるのかしら、
眠くならないようにしなきゃ、とかいろいろ考えてしまいます。
普段宵っ張りの朝寝坊なので、朝4時から坐るとなると、坐っている間にこっくりこっくり船を漕ぐのは必須。
月曜からせめて6時に起きようと試みるも、見事撃沈し続けています。これでは坐りにいくというよりも寝にいくようなものになってしまう。とほほ
明日こそ6時に起きます。(宣言)
とは言っても一番ドキドキするのが、ごはんの時間。
食事にかける時間が半端なく早いから、普段ゆっくり時間をかけて食べているわたしとしては、とても緊張します。飲み込むようにしないと早さについていけないので、どうなることかと今から心配です。前回うかがったときは、かぼちゃがのどにつまって苦しかったの。とほほ 食べることってこんなにむずかしいのかと身にしみました。
しかしそんなことは些末なこと。
目的はとにかく坐ること。
以前一泊坐禅会に参加したときに感じた、「ただ坐る」ことの良さはなんとなく理解しているつもり。
けれども、一日中、それもまるっと4日間は初めて。
想像できない感情がわき出てくるんじゃないかしらん。
楽しみでもあり、恐怖でもあります。
お風呂にも入らず、誰とも口をきかない4日間。
大したことなかったなと思うのか、きつかったと思うのか、面白かったと思うのか。
怒りや他人に対する過剰な期待とか、そういった自分の中で消化しきれない感情が少しでも和らいで、普段の生活を穏やかに過ごす、なんらかのヒントが得られるといいなぁという、淡い期待を抱いています。
とはいえ、こんな思いも挫かれたりするのでしょうか。
あぁ、怖い。
ブログのタイトルを変更しました
はてなブログに引っ越してきて、そろそろ2年。引越し前のブログの期間を考えると、4年くらいこのタイトルを使ってきました。
仏教のお勉強の記録をしていこうと始めたブログですが、そこそこ雑記がまざっています。「仏教ねえさんの仏教お勉強ブログ」は深く考えずにつけたタイトル。絶対に入れたかったのが 「仏教ねえさん」という言葉だけ。
元来大雑把なわりにへんなところで神経質なわたし。
なぜ「仏教」だけを書こうとしないのか。
仏教の勉強を書こうとしているのに違うことを書いているのっておかしい。
と自分で考え込むこともしばしば。
そうしてやっと「そうだ!ブログのタイトルを変更すればいいじゃん!」と思い至ったわけです。おそい。ということで、ブログのタイトルを変更することにしました。
ゆずれないポイントはたったのふたつ。
ひとつ、「仏教ねえさんの」は絶対はずさない。
ひとつ、少し文学チックな雰囲気を醸しだしたい。
6月7日頃からちまちまと目を引く言葉探しが始まりました。辞典を眺めたり、好きな作家のタイトルを調べたり、所蔵本から手当たり次第に目次を眺めたり。
目に付いた言葉をどんどん書き出す。
ひと通り思い悩んだ結果、
「仏教ねえさんの灯点し頃の骨休め」に決めました。
灯点し頃とは、日が暮れて、明かりを点しはじめる頃合を意味する言葉。
骨休めとは、休憩。休息。
「ひともしころ」という言葉を読んだとき、こんな情景が目に浮かんだのです。
季節は秋。休日の夕方、少し外出して家に戻ってきたときの誰もいない部屋。
部屋はほの暗いけど外はまだ少し明るい。
明かりをつけようかな、いやまだいいかなぁ、いややっぱりつけようかな、いやまだかなと、スイッチの前でほんの一瞬の間、立ち尽くして迷い、考えているわたしがいる。
日常生活の中で電気を点す、点さないという行動はとてもとても些細なこと。点けたければ点ければいいし、点けたくなければ点けなくていい。どっちでもいい。
これは、思考することにも似ている。思考したければ思考すればいいし、思考したくなければ思考しなくていい。どっちでもいい。
けれど、灯点し頃が少しでも過ぎれば、確実に電気を点ける。つまり思考をする。
この「灯点し頃の骨休め」は、ほんの一瞬でも、ほんのつかの間でも、迷い考えて、次にじっくり考える前にかるくひと休みしようじゃないか。というニュアンスを含められるんじゃないかなと思ったのです。
しかも仏教の勉強や雑記、本の感想でもなんでも書いてもよいタイトル。よかったね!
ということで。
「仏教ねえさんの灯点し頃の骨休め」をどうぞご贔屓に。
仏教ねえさんより。