仏教ねえさんの灯点し頃の骨休め

仏教について、少しずつお勉強したことを記録していこうと思って始めたブログです。ひよっこコラムニストです。

最近

文章力養成講座に通っています。

すぐに文章力がつくわけではないし、こんなもんなんかなぁという講座全10回。

 

文章を書くプロに教えていただいているので、学びは多いけれど、

ふんわりとつまらなさを感じていたりします。

自分が求めていた講座ではなかったのかもしれません。

痛恨の選択ミス。とほほ。

 

書けなくなる、そしてはたと気づいた

ついくせで考えすぎてしまう傾向にあるわたし。

最近、文章を書くことができなくなっていました。

A4用紙に書きたいことをまとめて書きましょう。

といわれて、いざ実行しようとA4用紙を前にし書こうとすると、

何を書きたかったのか、わからなくなってしまって、結局まとまらず。

 

結局、新聞のような記事やお店の紹介の記事を書きたいわけじゃなくて、

正しい日本語で、自分の思うことを、ただ自由に書きたいんだな。

ということがはっきりしました。

 

ある程度の文章構成は必要だから、学んだ要素は組み入れて、

あとは自由に書けばいいんだ!

と、やっと自分の中で学んだ要素を消化してきた感じ。

おかげで、今、書くことができています。

 

かといって、構成が完璧かと言われればそうでもないけれど、

少ない人でも読んでくれている人がいるこのブログに

もう少しおもしろみのある文章で、自分の言葉で書きたいなぁ。

 

 

言葉っておもしろい、と楽しくなった

そこで。

言葉はとても多種多様で、日本語っておもしろいなと思った本をご紹介します。

 

日本語には、同じような意味のある単語が多いですよね。

たとえば、「夜」。

同じ夜でも、真夜中・深更・夜更け・宵・宵の口などなど。

時間帯によって、同じ「夜」を表現できる。

これはちょっとしたニュアンス、つまり語感によって

微細な差異を表現できるということ。

そして、日本人はこの差異がわかるのだ。すごい。

 

この本を読んで、思いついた言葉をそのまま使うのではなく、

もっと見合う表現の単語があるんじゃないかと考えるようになった。

 

そして、『語感の辞典』(岩波書店・中村明著)を購入。

 

人生は学びの連続

文章力養成講座自体に、おもしろみが感じられなくても、

言葉に対する向き合い方や接し方を、間接的に勉強させてもらっている。

 

結論、遠回りしているようでも、学びに無駄はないということなのでしょう。

 

おしまい。

ネルケ無方師による「私の理想の生き方と死に方」講演へいってきた。

昨年の7月だったか、安泰寺の夏合宿以来の無方さん。

朝日カルチャーセンターには年1回は講座をしにいらっしゃるよう。

 

今回は、「生き方と死に方」についてのご講義でした。

無方さんならではの「キリスト教仏教の比較」でお話してくださったので、

キリスト教の死生観も知ることができました。

 

 

お話を聴いて、思ったことや疑問に思ったことを記録しておきます。

 

わたしは、「死」についてはほぼ毎日考えます。

「今日死ぬかもしれない」

「明日死ぬかもしれないから今日を一所懸命生きよう」

とかそういう考えではなく、ただ漠然と「死」を思うのです。

 

一緒に暮らしているうさぎさんが死んじゃったら悲しいよな。

家族が死んじゃったらわたしはどう行動するんだろうか。

もしこのマンションから飛び降りたら、ぐちゃぐちゃになるんだろうな。

 

とかそんな感じ。

……大丈夫ですか? と思われるかもしれませんが、

わたしにとって通常運転です。特段異常ではないです。

 

会社では「もしわたしが交通事故で死んだら、君たちはどうするんだい?」

と言って、もっと責任を持てと叱咤激励することはありますが、

これも「死」を思う一環かもしれない。

 

死後の世界 

死後の世界があるのかないのかと問われれば、わたしの答えは「ない」。

死んだあとのことまで心配する必要はない。

今の世界のことで精一杯なのに、死後の世界のことまで心配する暇はないし、

死んだら死んだ時に考えればいいと思っています。

もし、タマシイというものがあり、思考することができる場合ですが。

 

釈迦は、死んだあとのことについては言及していません。

死んだあとのことは釈迦も知らないので、保留している。

ここで大事なことは、「死後は問題ではない」ということ。

「今、ここ」が問題。

 

輪廻転生があるとしたら、またこの世に違う姿でやってくることになります。

「来世はめっちゃいい人生が送れるといいなー」と思っていても、

現在をよく人生を送っていない人が、来世もめっちゃいい人生が送れるはずがない。

だから、今を生きろ。

 

釈迦は涅槃にいる。

死んだら消えて無くなることが涅槃。ろうそくの灯がフッと消えるように。

その時にふと思いついたのが、落語の「死神」というお話。

 

kotodama.xn--9oq386cb2a.com

 

お気に入りのマンガでも物語の中に組み込まれています。

発売日 : 2013-06-07

寿命がろうそくの火。火が消えてしまえば寿命は尽きる 。

 

そんなことを考えていたら、ふと新たな考えが。

 

輪廻転生を信じることは、「生」に執着していることにならないか?

「また生まれ変わったら」という言葉には、「生」への執着があるような気がしてきたのです。

「生きたい」という願望は当たり前です。

「死にたくない」という願望もおそらく当たり前です。

次があると思いたくなるのも理解できますが、次があるのかは誰もわからない。

だけど、「生まれ変わり」という言葉があるということは、

日本文化において、輪廻転生という現象がある、と

ある程度信じられているということでしょう。

これが執着にあたるのか。

ここではわたしにとっての答えは見つかりませんでしたが、引き続き考えていきたいテーマです。

 

その他にももちろん、いろいろなお話をしてくださいました。

午後からの坐禅指導にも参加し、経行も久方ぶりに行いました。

 

少しお話もさせていただいたので、最近の鬱々としていた気持ちが

晴れ晴れとした気持ちになりました。

 

また安泰寺に行くことにしているので、日々の生活を淡々と

日々修行だと思いながら、なんとか生き抜こうと思います。

 

 

なんだかまとまりのない文章になってしまった。

気にしない。

 

 

今日入手しました。 

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『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』を読んだら、ちょっと心が晴れたよという話。

なかなか読む勇気がでなかった本。昨年の6月に購入したまま、寝かせておいた本。

 

 

GWが幸いし、少し心に余裕が出てきた感じがする。気軽に読める文字量で、簡単な日本語でまとめられていることはわかっていた。今なら読めそうだなと手にとった。ここ数ヶ月、なにかと苛立ちが抑えられず、仏教の教えがたまらなく偽善的におもえて仕方なかった。読書といえば、もっぱら歴史本。歴史は自分の考えや思想に影響しないから楽だった。仏教を意識的に避けていた。

 

この本を読み始めて、途中、胃が痛くなった。まったく自分がマインドフルネスではないからだ。人に参与し、絶えず苛立ち、随時反応しているからだ。胃が痛くなる、というのも生理的反応で、体からマインドフルネスを拒否しているかのよう。「マインドフルネスであり続けることなんてできっこないじゃん」とおもいながら読んでいたのだ。もう読むのをやめよう。そうおもった。まだこんな風に感じるのか……と自分の心がまだ完全復活していないことに気づいた。 

それでも、今日、この本を手にとり、カバンに入れ、わざわざ喫茶店へ出向いた。ゆっくりこの本と向かい合おう。そう考え、読み始めた。ここで挫折してしまったら、わたしの心の平静さは戻ってこない。もっと嫌になったらその時にやめればいいと、ページをめくった。

幸い、読み終えるまで、胃が痛くなることはなく、幼少時のころや、疎遠になっている友人だった人のこと、母との関係や現在の職場の人間関係について、嫌な(嫌だった)ことが思い出された。

 

私は全ての人を、彼らが自分に何をしたのか、そして未来において何をするのかを問わず、解放する(p108)

 

過去において、わたしは誰かを傷つけているし、誰かに傷つけられている。それは誰もがそうなのだ。そしておそらく未来もそうなのだ。そこを、「解放する」。

「今」のわたしにとって、「ゆるす」ということはなかなかハードルが高い。

「ゆるす」ということは、どうしても上から目線になるように感じてしまっている。それと同時にゆるせるものなのか?という疑問がくっついて離れない。

マインドフルネスであり続けることはよいことだとおもう。それと同時に常にマインドフルネスであり続けることなんてできっこないともおもう。

頭ではそうではないと理解できているような気がするが、心がどうしても納得してくれない。

そこで、「解放する」というキーワードがひょっこり現れた。

少しだけ、ほんの少しだけ、マインドフルネスという状態はどういうことなのかわかりかけたような気がする。ただ、「気がする」だけだけれど。

解放するということは、自分も他者も解き放つことになる。そこで多少の自由が出てきて、身動きができてくるのかもしれない。

 

そろそろ自分の心と向き合った方が良さそう、仏教の教えを読み直そうとしていた時に、この本を選んでよかった。

本を読んで胃が痛くなるなんて初めてだったし、自分でおもうよりダメージが大きかったんだと気づけたこともよかった。

完全にではないけれど、心が少し晴れたかも。積読しておいてよかった。

読むだけで心が晴れる仏教法話というサブタイトルは、わたしにとって正解。

 

明日からお仕事。適当にしよっと。

 

 

 

 

追記

前回のブログで非公開希望でコメントをくださった方へ。
どうやって非公開のコメントに対し連絡取るのかわからなくて、そのままになってしまっていました。とてもありがたく拝読いたしました。お気遣い感謝です。ありがとうございます。 

最近やたらと攻撃的な気持ちになるからもうだめだってなった件

最近やたらと攻撃的な気持ちになる。

人に対して怒鳴りたくなるし、叫びたくなる。

きっとわたしは今、人に過剰な期待をしているのだ。

 

なんでそうなるの?

なんでできないの?

なんでそういう発想になるの?

意味がまったくわからないんだけど。

 

といった調子だ。

 

そしてついに、

 

みんな死んじゃえばいいのに!!きぃぃぃーーー

 

と叫んだ。

はたと我にかえると、周りはドン引き。

 

もう無理だ。

もうだめだ。限界だ。

 

ネットの「うつかな?診断」をしてみたら、

うつの傾向あり。と出た。

はぁ、またか・・・・・・。

 

たしかに歯磨きや入浴が、億劫すぎてうまくできなかったり、

疲れが取れてなくて、朝はボーっとしていたりする。

体はだるいし、こめかみはぴくぴくしている。

 

仏教の教えの本を読んでも、まったく頭に入ってこない。

違う内容の本なら読めるのに。

自分の問題だと思うからこそ、

意識的に仏教を遠ざけているような気がする。

 

数年前と一緒。

前回は、自分に対して攻撃的だったけど、

今回は、他人に対して攻撃的になっている。

 

とはいえ、ある程度自分を分析できているから、ましかもしれない。

しかし、この分析もおかしいのかもしれない。

なにが自分にとってベターなのかが皆目わからなくなってきた。

 

それでもまだ、文章をかけるだけまし。

早めに対処しておくことにする。

早くこの状況を脱出したい。

父について思うこと。

わたしがまだまだ幼い頃、それこそ物事の判別がつく前に、

父は、仏の世界へ「一足お先に!」と旅立っている。

 

本日、父の弟と妹が大阪へやってきた。

ちなみに父は、5人兄弟の真ん中。

 

叔父と叔母は、父のことを聞かずとも語ってくれるため、

父のことを知る貴重な機会だ。

わたしは父のことをほとんど知らない。

母は父のことをあまり話したがらない。

だから、わたしも聞かないことにしている。

 

叔父曰く、

父は、兄弟の中で一番賢い人だったらしい。

田舎暮らしで当時はまだまだ貧しく、高校へ通うこともできなかったそうで、

当時は泣いて悔しがったそうだ。

気の毒に思った父の母親は、

分厚い物理や科学などの参考書をなんとか手に入れて、

父の向学心を補っていたそうだ。

 

叔母曰く

父は、20歳だった叔母に、

「本物を見て、体験しろ」と言ったらしい。

美術にしろ、写真にしろ、仏像にしろ、本にしろ、

実際に本物を見て、触れてみて、

自分がなにを感じるのかを大切にしなさい、

ということらしい。

 

 

今、父がいたら、

 

歴史の話や宗教の話ができたかもしれない。

わたしの知らないことをたくさん教えてくれたかもしれない。

父の影響を受けていたら、もっとわたしは賢かったかもしれない。

すぐれた指導者として、父がいてくれたら、

わたしの人生は違っていたかもしれない。

 

そして、わたしが30代後半から一家の大黒柱にならなくてもよかった。

 

父の話を聞かないのは、

どうしても歴史に禁物の「IF」を語りたくなるからだ。

母が語りたがらないのではなく、わたしが聞きたがらないのだ。

 

だけど、今までの人生がまったく気に入っていないわけではない。

ただ、別の道があって、そちらのほうが素晴らしかったに違いない、

と想像してしまうのだ。

 

「父がいたら」「父がいたら」「父がいたら……」

 

考えても仕方ないことなのに、父の話を聞くとどうしても思ってしまう。

 

だから、わたしは親戚とは距離を置きたい。

父の面影がちらちらよぎるから。

父によく似た顔の叔父と叔母に会うと、ざわざわする。

わたしによく似た顔の従姉妹に会うと、そわそわする。

 

わたしの中で、父は幻想なのだ。

生物学的に父はいるけれど、父はいない感覚かもしれない。

 

こんなこと書いていて、本当に父のタマシイがあるとして、

そしてわたしがこんなことを思っていると知ったら、

父は悲しむだろうか。

優しい人だったことは知っているから、悲しむだろう。

 

父は、死にたくて死んだわけではないのだ。

それなりに無念だったろうと思う。

わたしをかわいいと思っていたら、我が子の成長を見届けられないことは、

未練として残るだろう。

わたしがもう少し成長してから亡くなっていたら、

わたしがそれなりに会話ができるような大人であれば、

叔母に遺したように、

わたしにも心に残るような言葉を遺していてくれたのかもしれない。 

いや、もしかしたら、何かを言ってくれていたかもしれない。

しかし、残念ながら幼いわたしの記憶にはのこらなかった。

 

こういうことを思ってしまうのだ。

父方の親戚に会うと。

毎回こう思ってしまうのだ。

できれば避けたい感情なのだ。

 

父に対する、こんな感情に正面切って向かい合わなくてはならなくなる時期は、

わたしが死ぬ前に、果たしてくるのだろうか。

たぶん、いずれ、どんな形にしろ、

向かい合う必要はあるとは感じている。

 

早いほうがいいのか。

できるだけ遅いほうがいいのか。

それは、まったくわからない。

 

なにか、きっかけがあるかもしれない。

それを待っていてもいいように思う。